新たな来訪者
クレインが本領に戻ってから半月ほど経った頃、灰の谷に、これまでとは違う種類の訪問者が現れた。
王都から来たという若い男は、丁重な物言いながら、どこか探るような視線を隠していなかった。館の応接室に案内されたその男は、椅子に腰を下ろす前に、まず室内の調度品を一瞬だけ見渡した。値打ちを測るような、あるいは、この土地の実情を確かめるような、抑えた仕草だった。
「私はグレッグ商会の者ではございません。王都で商いの仲介を行っている者です。灰の谷のヨルガ草の評判を伺い、直接お話を伺いたく参りました」
名はセドリックと名乗った。物腰は柔らかいが、フィリアはその言葉遣いの端々に、単なる商人以上の教養を感じ取っていた。商人であれば、もっと値段や量の話を早々に切り出すはずだ。だが、この男は、まだ何も具体的な話をしていない。
「失礼ですが、どちらのご紹介で、こちらにいらしたのですか」
フィリアが静かに尋ねた。その声には、これまでの半年間、数字と向き合い続けてきた者だけが持つ、静かな鋭さがあった。
「――正直に申し上げます。私は、ある方の依頼を受けて、灰の谷の実情を確かめに参りました。その方の名前は、今はまだ明かせません」
俺とフィリアは、思わず視線を交わした。ロヴェル侯爵家の関係者なのか、それとも別の何者かなのか。判断する材料は、まだ足りなかった。
「実情を確かめて、どうするおつもりですか」
「それは、私が持ち帰る報告の内容次第です。ただ、一つだけ申し上げられるのは――この土地の変化に、興味を持っている方が、王都には他にもいるということです」
セドリックはそう言うと、丁寧に礼をして、その日のうちに灰の谷を去っていった。残されたのは、はっきりとした答えのない、いくつもの問いだけだった。
「敵か、味方か、まだ分かりませんね」
フィリアが呟いた。
「どちらであっても、灰の谷がやるべきことは変わりません。数字を積み上げ、土地を豊かにし、領民の暮らしを守る。それさえ続けていれば、どんな相手にも、正面から向き合えます」
俺はそう答えたが、内心では別のことも考えていた。ロヴェル侯爵家、グレッグ商会、そして今回のセドリックという男。灰の谷という辺境の小さな領地を巡って、王都の思惑が、確かに動き始めている。前世の企業間の駆け引きでも、小さな地方の店舗が、思わぬ形で、業界全体の競争の駒として利用されることがあった。灰の谷も、今、そういう段階に足を踏み入れているのかもしれない。
その夜、ダレンが、セドリックの身元について、可能な限り調べてみると申し出た。
「王都の商人仲間に、何人か、こうした裏の事情に詳しい者がおります。焦らず、慎重に確かめてみましょう」
「――怖くはありませんか。相手が、どれほどの力を持っているか、まだ分からないのに」
フィリアが、静かに尋ねた。
「怖くないとは言えません。ただ、灰の谷がこれまで積み上げてきたものを、俺は、信じています。数字と、誠実さ。それさえあれば、どんな相手にも、正面から向き合えるはずです」
フィリアは、その言葉に、静かに頷いた。窓の外の月明かりが、二人の影を、静かに照らしていた。
翌朝、俺はダレンと共に、これまでの取引先を、改めて一覧にまとめ直した。特定の商会や貴族家に、過度に依存していないかを、確かめる作業だった。分厚い帳簿を、一頁ずつ、丁寧に確認していく作業は、決して派手なものではなかったが、こういう地味な確認作業こそが、いざという時の備えになる。
「幸い、灰の谷の取引先は、この一年で、かなり分散されています。一つの相手に、すべてを頼っている状態ではありません」
ダレンの報告に、俺は静かに安堵した。
「これも、これまでの積み重ねの成果ですね。もし着任した当初のまま、限られた取引先だけに頼っていたら、今回のような不穏な動きに、もっと脆く反応してしまっていたかもしれません」
灰の谷は、こうして、見えない部分でも、確かな強さを、少しずつ積み重ねていた。
数日後、ダレンが調べを終えて報告に来た。彼の表情には、いつもより緊張した色が浮かんでいた。
「セドリックという名の男、王都では、フェアバンク伯爵家に近い人物として、いくつかの商人の間で知られているようです」
「フェアバンク伯爵家、ですか」
「はい。ロヴェル侯爵家とは、長年、商業上の利権を巡って、対立していると噪されている家です」
俺は、その情報に、静かな緊張を覚えた。ロヴェル侯爵家と対立する家からの接触。それが、灰の谷にとって、追加の危険になるのか、それとも、新たな味方になるのか。まだ、判断する材料は足りなかった。二つの大貴族家の争いに、灰の谷という小さな領地が、いつの間にか、巻き込まれ始めている。
「もう少し、様子を見てみましょう。焦って、どちらの側にも肩入れするのは、危険です」
フィリアの言葉に、俺は頷いた。灰の谷を取り巻く事情は、これまでよりも、確かに複雑さを増していた。窓の外、夕暮れの光が、ヨルガ草の畑を、赤く染めていく。その静かな光景と、これから訪れるであろう波乱の予感との間に、俺はしばらく、言葉にできない距離を感じていた。




