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兄の帰還

クレインが灰の谷に来てから、三月が過ぎた。本領から、彼を呼び戻す書状が届いたのは、相互扶助の仕組みが根付き始めた頃だった。着任した当初、クレインは魔力量だけを頼りに物事を判断する、典型的な貴族の嫡子だった。灰の谷の現実を目にした時、彼は何度も戸惑い、時にはあからさまな不快感すら見せていた。だが、この三月の間に、その表情は少しずつ変わっていった。

「――名残惜しいような気がするな」

出発の前夜、クレインは館の窓辺でそう漏らした。窓の外には、月明かりに照らされたヨルガ草の畑が、静かに広がっている。

「兄上は、変わりましたね」

「お前に言われると、少し複雑な気分だが」

クレインは苦笑しながら、卓上に置かれたフィリアの帳面に目を落とした。着任した当初、彼はこうした帳面を、実務者の些事として、ほとんど気にも留めなかった人物だった。

「この三月、俺は初めて、魔力以外の物差しで物事を見ることを覚えた気がする。土地の質、人の配置、数字の裏にある事情。今までは、そんなものを見なくても、魔力量だけでどうにかなると思っていた」

「本領に戻ったら、その物差しを、どう使いますか」

「まだ分からない。だが、少なくとも、報告書の数字だけで判断することは、二度としないつもりだ。現場を見なければ、本当のことは分からない」

その言葉には、以前のクレインには無かった重みがあった。窓の外、月明かりに照らされた畑を眺めながら、彼は、しばらく何も言わずに立っていた。人は、言葉だけでは変わらない。実際にその場に立ち、自分の目で見て、自分の手を動かして、初めて何かが変わる。前世でも、報告書だけを見て判断する上司と、実際に店舗に足を運んで自分の目で確かめる上司の間には、決断の質に、決まって大きな差があった。

翌朝、クレインの馬車を見送るために、館の前に村人たちが集まった。予想していなかった光景だった。冷たい朝の空気の中、村人たちは、それぞれの仕事の手を止めて、館の前に集まっていた。

「クレイン様。灰の谷の畑仕事、なかなか良い働きぶりでございましたよ」

オズワルドがそう声をかけると、クレインは少し驚いた顔をして、それから深く頭を下げた。

「短い間だったが、世話になった。この土地のことは、忘れない」

村人たちの中には、クレインとの短い交流の中で、確かな親しみを感じるようになった者もいた。着任した当初、彼が畑に立った日には、村人たちの間に、明らかな戸惑いの空気があった。貴族の嫡子が、自ら鍬を持つなど、この土地では前例のない光景だったからだ。だが、彼が本当に泥にまみれながら作業を続ける姿を見て、村人たちの態度は、少しずつ変わっていった。

「クレイン様、また来てくださいよ。今度は、収穫祭の時期に来ていただければ、もっと歓迎できます」

オズワルドの言葉に、クレインは、少し照れたように笑った。

「――考えておく。約束はできないが」

その返事は、以前の彼であれば、決して口にしなかった、柔らかいものだった。

馬車が出発する直前、クレインは俺に向き直った。

「ルーク。本領に戻ったら、父上に正しく報告する。お前とフィリア嬢が、この土地でどれだけのことを成し遂げたか、きちんと伝える」

「ありがとうございます、兄上」

「それと――もう一つ。ロヴェル侯爵家について、本領でも調べを進めておく。何か分かれば、必ず知らせる」

クレインの視線には、これまでにない確かな意志があった。魔力量だけを競っていた兄弟の関係が、いつの間にか、違う形の信頼に変わり始めていた。

馬車が遠ざかっていく様子を、俺とフィリアは並んで見送った。馬車の轍が、朝露に濡れた土の上に、しばらく残っていた。

「兄上との関係が、変わりましたね」

フィリアがそう言うと、俺は小さく頷いた。

「測り方が変われば、見える景色も変わるものです」

その日の午後、俺たちは、クレインが残していった、農地の観察記録を見返した。短い滞在期間ながら、彼が丁寧に書き留めた記録には、俺たちがまだ気づいていなかった、いくつかの小さな発見も含まれていた。

「――兄上は、こんなに細かく、畑の様子を見ていたんですね」

フィリアが、クレインの記録を読みながら、感心した様子で言った。

「魔力量に頼らずに物事を見る、という経験が、彼にとって、新鮮だったのだと思います。この記録の中には、俺たちが見落としていた、西側の区画の日照の変化についての指摘もあります」

「早速、確認してみましょう。兄上の目も、この土地にとって、無駄にはなっていないようです」

俺たちは、クレインの残した記録を、灰の谷の帳簿の一部として、丁寧に保管することにした。彼が、この土地で過ごした三月の記憶は、こうして、確かな形で、灰の谷の歴史に刻まれていった。

数日後、王都のクレインから、短い手紙が届いた。

「本領に戻ってから、灰の谷での経験を、いくつか、本領の運営にも取り入れてみている。まだ、うまくいくかは分からないが、試してみる価値はあると思っている」

その手紙を読んで、フィリアが、静かに微笑んだ。

「クレイン様も、少しずつ、自分なりのやり方を、見つけ始めているようですね」

「兄上らしい、地道な変化だと思います。派手な報告ではありませんが、確かに、何かが変わり始めています」

俺は、その手紙を、大切に、書棚の一角に、保管することにした。窓の外、夕暮れの光が、書棚に並んだ帳面の背表紙を、静かに照らしていた。クレインが灰の谷で過ごした三月は、決して長い時間ではなかった。だが、その短い時間の中で、確かに何かが変わり、その変化が、これからの本領の運営にも、静かに影響を与え始めている。その事実を、俺は、静かな満足と共に噬みしめていた。


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