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新たな戦場へ

相互扶助の仕組みが動き出す一方で、フィリアは新たな課題に取り組んでいた。ヨルガ草の需要が増える中、灰の谷だけでは、王都からの注文をすべて満たせない規模になってきていたのだ。

「近隣の領地にも、ヨルガ草の栽培を広げられないか、考えています」

フィリアが地図を広げながら言った。会議室の卓上には、灰の谷を中心に、周辺の小領地の境界線が、細かく書き込まれた地図が広げられている。彼女の指先が、地図の上を、ゆっくりと辿っていった。

「灰の谷だけで栽培を独占するより、近隣領と協力して栽培地域を広げた方が、供給が安定します。それに、技術を独占するより共有する方が、周辺との関係も良くなるはずです」

前世の発想からしても、それは理に適っていた。一つの店舗だけで需要をすべて満たそうとするより、地域全体で供給網を組んだ方が、結局は長続きする。フクヤストアでも、ある地域で人気の出た商品を、一つの店舗だけで抱え込もうとした店長は、決まって在庫と人手の限界に苦しんでいた。周辺の店舗と協力し合う体制を作った地域の方が、結局は長く安定した売上を保っていた。

「独占には、もう一つ危険があります」

俺はフィリアに言った。

「灰の谷だけがヨルガ草の利益を独占していると見られれば、それ自体が、周辺の領地からの反発を招く材料になります。今は、まだ小さな反発でも、いずれ大きな障害に育つかもしれません」

「その通りだと思います。それに、供給が一つの土地に集中していると、何か災害が起きた時、需要そのものが立ち行かなくなる危険もあります」

俺たちは、隣接する二つの小領地に使者を送り、ヨルガ草の栽培技術を共有する提案を持ちかけた。反応は当初、慎重なものだった。

「灰の谷が儲けを独占するための口実ではないか」

そういう疑いの声も、使者を通じて伝わってきた。前例のない申し出には、当然そういう反応が返ってくる。灰の谷自身も、かつて同じような疑いの目で、周囲から見られていたことを、俺は思い出していた。着任した当初、俺たちが提案するすべての改革が、当初は同じような警戒を受けていた。それを思えば、この反応もまた、当然のものだった。

「疑われるのも当然です。ですから、まずは条件を明確にしましょう」

フィリアが提案したのは、栽培技術の提供と、収穫物の買い取りを保証する契約をセットにする方法だった。栽培に不安がある領地でも、収穫すれば必ず買い取ってもらえるという保証があれば、踏み出しやすくなる。

「これなら、相手側のリスクをかなり減らせます」

「ただ、その分、俺たちが買い取りの責任を負うことになります。もし需要が予想より伸びなければ、蔵に売れない在庫が積み上がることになります」

「その可能性は考慮しています。サイラス殿から届いた王都の需要見通しを見る限り、当面は供給不足の方が続くと予想されます」

数字に基づいた判断だった。ゼロにはできないが、抑えられるリスクだ。俺たちはその条件で、隣接領地との協定を進めることにした。フィリアは、その夜も遅くまで、想定されるあらゆる需要の変動パターンを、帳面に書き出していた。楽観的な予測、慎重な予測、そして最悪の予測。三つの数字を並べて確認する彼女の姿勢に、俺は改めて、その慎重さの深さを見た。

協定の交渉の場で、隣接領地の代表者の一人が、こう漏らしたことがあった。

「灰の谷が、こんなに丁寧に、こちらの事情を聞いてくれるとは、思っていませんでした。これまで、大きな領地との交渉では、いつも、一方的な条件を突きつけられるだけでしたので」

その言葉に、俺は、灰の谷自身が、かつて同じような立場にいたことを、改めて思い出した。無理な条件を突きつけられ、抵抗する力もなく、ただ耐えるしかなかった日々。その記憶があるからこそ、俺たちは、相手の事情を、丁寧に聞く姿勢を、大切にしていた。強い立場に立った時にこそ、かつて弱い立場だった時の記憶を忘れてはならない。

交渉には、ダレンが中心的な役割を果たした。彼の十二年にわたる実務経験と、相手方の担当者との、地道な信頼関係の積み重ねが、交渉を、着実に前へ進めていった。

「私が、こうして誰かとの交渉に、正面から関わるのは、久しぶりのことです」

ダレンが、交渉の帰り道、そう漏らした。夕暮れの道を、馬車の車輪の音だけが響いていた。

「モーガン様の時代は、交渉と言えるようなものは、ほとんどありませんでした。向こうの言い値を、黙って受け入れるだけでしたので」

「今は、違いますね」

「はい。灰の谷が、確かな実績を持つようになったからこそ、対等な立場で、話ができるようになったのだと思います」

ダレンの声には、確かな誇らしさが滲んでいた。俺は、その声の変化に、この一年余りの間に、彼自身がどれほど変わったかを、改めて感じ取っていた。

協定を結んだ後、俺たちは、近隣領地との定期的な情報交換の場を、新しく設けることにした。ヨルガ草の栽培状況だけでなく、それぞれの土地の課題や、工夫についても、互いに共有し合う場だった。

「これは、灰の谷にとっても、大きな学びの機会になりますね」

フィリアが、集まった資料を見ながら言った。

「一つの土地だけでは見えない工夫が、他の土地の目を通せば、見えてくることもあります。俺たちも、これまで、灰の谷の中だけで、答えを探そうとしてきましたが、これからは、もっと外の知恵にも、目を向けていくべきだと思います」

この情報交換の場は、後に、灰の谷が主導する、より大きな領地間の連帯へと発展していく、確かな第一歩となった。

一月後、最初の協定が成立した。灰の谷の名前は、これまでとは違う意味で、周辺の領地に知られるようになっていった。「立て直った領地」から、「共に栄える方法を示す領地」へ。その変化を、俺は密かに誇らしく思っていた。

「これで、また少し、灰の谷の足場が広がりましたね」

フィリアの言葉に、俺は頷いた。窓の外には、協定の成立を祝うように、ヨルガ草の若葉が、夕暮れの風に揺れていた。灰の谷という、かつて誰にも顧みられなかった土地が、今は、周辺の土地にとっても、確かな意味を持つ存在に変わり始めている。その実感が、俺の中に、静かな、しかし確かな力となって積み重なっていくのを感じた。


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