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相互扶助の仕組み

灰の谷の次の課題は、不作の年にどう備えるか、という点だった。ヨルガ草への転作や分割課税で、農家の手元に残る蓄えは増えていた。それでも、数年に一度訪れる大きな不作には、まだ十分に対応できていない。豊作が続くと、人はその豊かさが当たり前だと錯覚してしまう。前世で不振店舗を渡り歩いていた頃、俺はその錯覚がどれほど危険なものかを、何度も目にしてきた。売上が良い時期にこそ、次の落ち込みへの備えをしておかなければならない。それを怠った店舗は、決まって、次の不況で一気に立ち行かなくなった。

「前世の保険という仕組みを、この土地に持ち込めないか、考えています」

俺はフィリアとダレンに、その構想を説明した。会議室の卓上には、これまでの収穫記録を積み上げた帳面が、いくつも広げられている。窓から差し込む午後の光が、紙の表面を淡く照らしていた。

「豊作の年に、収穫の一部を共通の蔵に積み立てておく。不作の年には、その蔵から、被害の大きさに応じて分配する。個々の農家がそれぞれ蓄えを持つより、村全体で蓄えを持ち合う方が、少ない負担で大きな安心を得られます」

「――それは、税とは別の仕組みということですね」

「そうです。税は領地の運営のために使いますが、この蔵は、あくまで領民同士の助け合いのための蓄えです。運営には、俺たちが直接関わるより、村の代表者による管理組織を作った方がいいと思います」

領主が直接管理すれば、いずれ、それは税の一種として扱われてしまう。村人たち自身の手で運営されることにこそ、この仕組みの本当の意味がある。前世の共済組合や協同組合の仕組みを思い出しながら、俺はそう考えていた。

フィリアがすぐに、積立の割合と、不作時の分配基準について、いくつかの案を計算し始めた。彼女の筆先は、数字を追うごとに、少しずつ速さを増していった。羽根ペンの先が紙を擦る音だけが、しばらく会議室に響いていた。

「積立の割合を高くしすぎると、豊作の年の生活が苦しくなります。低すぎると、不作の年に十分な蓄えになりません。この土地の過去十年の収穫の変動を見ると、収穫の一割程度が、無理のない積立の目安になりそうです」

「その根拠は?」

「過去十年のうち、大きな不作は二回。その被害の規模から逆算すると、一割の積立が十年続けば、二回の不作をどちらも十分に補える計算になります」

俺は、その説明に静かに感嘆した。数字の裏に、こうして確かな根拠を積み上げる姿勢は、彼女が着任した頃から、変わらず持ち続けているものだった。かつて「無価値」と呼ばれ、誰にもその力を認められなかった娘が、今は、この土地の未来を左右する計算を、当たり前のように担っている。俺は、その事実を、改めて静かに噬みしめていた。

「ただ、数字が正しくても、村の人たちが受け入れてくれるかどうかは、別の問題です」

フィリアがそう付け加えた。彼女もまた、数字だけでは物事が動かないことを、この土地で学び始めていた。

オズワルドを含む村の代表者たちに、この構想を説明する集会が開かれた。集会所には、いつもより多くの村人が詰めかけ、狭い空間に、緊張と好奇心の混じった空気が漂っていた。最初は戸惑いの声も上がった。

「自分の蔵に置いておく麦を、なぜ皆で使う蔵に出さねばならんのですか」

一人の農夫がそう問いかけた。もっともな疑問だった。長年、自分の家族の食い扶持は、自分の蔵でしか守れないという考えが、この土地には根深く残っている。それは、決して不合理な考えではない。厳しい環境で生き延びるために、彼らが積み重ねてきた、確かな知恵の一つでもあった。

「今年の収穫は良かった方々もいれば、水はけの悪い区画で苦労した方々もいます。来年、立場が入れ替わることも、十分にありえます。その時、お互いを支えられる仕組みがあれば、この土地全体が、今よりずっと不作に強くなります」

俺の説明に、村人たちはしばらく黙って考え込んでいた。誰かが小さく咳をする音、椅子が軋む音だけが、集会所に響いていた。やがてオズワルドが口を開いた。

「――洪水の時、代理領主様とフィリア様が、我々のために動いてくださった。今度は、我々自身で、お互いを支える仕組みを作る番かもしれません」

その言葉が、集会の空気を変えた。それまで疑いの表情を浮かべていた者たちの顔にも、少しずつ、納得の色が浮かび始める。人は、理屈だけでは動かない。だが、これまで積み重ねてきた信頼という土台があれば、理屈の上に、確かな一歩を乗せることができる。

試験的な積立は、翌週から始まることになった。集会が終わった後、フィリアが、安堵の表情で言った。

「――受け入れてもらえて、良かったです。数字の上では正しくても、村の人たちの気持ちが動かなければ、意味がありませんから」

「あなたの数字と、オズワルドさんの言葉、両方があって、初めて動いたのだと思います」

数週間後、相互扶助の蔵に、最初の積立が、実際に運び込まれる日を迎えた。朝から、村の各所から荷車が引かれてくる音が響き、灰の谷の中心部は、いつもより賑やかな気配に包まれていた。村人たちが、それぞれの収穫の一部を、荷車に載せて、共通の蔵へと運んでいく。

「――こうして、目に見える形になると、実感が違いますね」

フィリアが、蔵に積まれていく麦袋を見ながら、そう言った。

「数字の上の計画が、こうして、確かな麦の山になる。この光景を見れば、村の人たちも、この仕組みの意味を、もっと強く感じられると思います」

ミラが、大人たちの間を駆け回りながら、積み上げられた麦袋の数を、指を折って数えていた。その小さな姿を見て、俺は少し目を細めた。この土地の未来を担うのは、こうした子供たちなのだと、改めて実感させられる光景だった。フィリアが、その様子を見て、優しく笑った。

「あの子も、少しずつ、数字に興味を持ち始めているようです」

「いい傾向だと思います。この土地には、これから、あなたのような目を持つ人間が、もっと必要になります」

その晩、俺たちは、相互扶助の蔵の運営規則を、正式な文書としてまとめ上げた。誰が、どのような基準で、蔵の中身を管理するか。不作の際の分配は、どういう手順で決定するか。細部まで丁寧に定めた規則は、これからの灰の谷にとって、確かな土台となるはずだった。蝋燭の火が、二人の手元を静かに照らし、羊皮紙に走る羽根ペンの音だけが、深夜の館に響いていた。

「この規則があれば、俺たちがいなくなった後でも、この仕組みは、正しく機能し続けるはずです」

俺の言葉に、フィリアは少し驚いた顔をした。

「――そんな先のことまで、考えているんですね」

「地道な仕組みほど、作った人がいなくなった後も、残り続けることが大切だと思っています。前世でも、良い制度は、必ず、次の世代に引き継がれる形で、初めて意味を持ちました」

前世で見てきた、優れた店舗運営の仕組みの多くは、特定の店長一人の力に頼るものではなく、誰が担当になっても回るように設計されたものだった。人は必ず異動し、いつかはその場を離れる。だからこそ、仕組みそのものが、人を超えて残る必要がある。

フィリアは、その言葉を、静かに帳面に書き留めた。蝋燭の炎が、彼女の横顔を、柔らかく照らしていた。窓の外では、月明かりの下、相互扶助の蔵が、静かに、しかし確かな重みを持って、灰の谷の中心に立っていた。

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