サイラスの調査
王都のサイラス老から届いた返信は、これまでのどの手紙よりも分厚かった。俺はその封を開ける前に、一度深く息を吐いた。中に何が書かれているか、なんとなく予感があったからだ。
「グレッグ商会の主要株主の一部に、中央貴族院に議席を持つロヴェル侯爵家の名が確認できました。表向きの出資比率は小さく、これまで公にはほとんど知られていません。ただ、商会の重要な決定には、必ずロヴェル家の意向が反映されているようです」
サイラス老の筆致は、いつも通り冷静だった。だが行間には、確かな警戒が滲んでいた。王都の商業登記の写し。いくつもの伝聞情報。それらを、丁寧に整理した形で綴られていた。老学者が、この調査にどれほどの時間を割いてくれたか。その分厚さが、何より物語っていた。
「ロヴェル侯爵家、ですか」
フィリアが呟いた。俺も、その名前を聞いたのは初めてだった。会議室に、これまでとは違う種類の緊張が、静かに広がっていく。
「王都の事情に詳しいわけではありませんが、侯爵家という以上、かなりの権勢を持つ家柄なのは間違いないでしょう」
ダレンが帳簿を片手に付け加えた。彼の声にも、隠しきれない緊張があった。
「モーガン様が異動された先の領地――あれも、ロヴェル侯爵家の影響が及ぶ地域だったと記憶しております。当時は気にも留めておりませんでしたが」
すべての断片が、一つの方向を指し始めていた。灰の谷の不正な取引。モーガン元代官の不自然な異動。グレッグ商会。そしてロヴェル侯爵家。まだ全体像は見えない。だが、これが単なる一つの領地の内輪の問題では済まないことだけは、はっきりしていた。
「今すぐにロヴェル侯爵家と事を構える必要はありません。まだ、こちらには決定的な証拠がない」
俺はそう言って、皆の視線を落ち着かせた。会議室の空気が、少しだけ緩む。
「今は、灰の谷自体の力を、もっと強くすることに集中しましょう。土地が豊かで、領民の暮らしが安定していれば、外からどんな圧力がかかっても、簡単には揺らがなくなります」
フィリアが小さく頷き、帳面に新しい頁を割いた。ロヴェル侯爵家という名前を記した、これまでで最も重い一頁だった。
「――こういう時、あなたは、どうやって冷静さを保っているんですか」
フィリアが、ふと尋ねた。
「保てているかは分かりません。ただ、前世でも、大きな相手と向き合う時は、いつも、目の前の小さな仕事から、手を止めないようにしていました。不安に飲まれると、目の前のことすら、疎かになってしまいますから」
「――そうですね。今、私たちにできることは、灰の谷の日々を、丁寧に積み重ねることだけです」
フィリアは、そう言って帳面を閉じた。会議室の灯りが、静かに二人の顔を照らしていた。
サイラス老の手紙には、もう一つ、付け加えられた一文があった。
「ロヴェル侯爵家は、これまで、正面から敵対した相手を、経済的な圧力によって、静かに追い詰めるという手法を、繰り返し使ってきたと聞きます。派手な攻撃ではなく、じわじわと、資金や取引先を断っていく形です。灰の谷が、もし標的になるのであれば、同じ手法が使われる可能性が高いでしょう」
俺は、その一文を、何度も読み返した。派手な攻撃であれば、まだ対応しやすい。だが、静かに、じわじわと追い詰められる形の攻撃は、気づいた頃には、すでに手遅れになっていることが多い。
「今から、できる備えを、少しずつ整えておきましょう。特定の取引先に、頼りすぎない仕組みを作ることが、一番の防御になると思います」
俺の言葉に、フィリアとダレンは、静かに頷いた。
その夜、俺は一人で、灰の谷の畑に立った。土地の声を、まだ完全には聞き取れない。だが、この土地が、これまでとは違う種類の脅威に、静かに晒され始めているという感覚だけは、確かにあった。
「――この土地を、どんな圧力からも、守れる場所にしなければ」
俺は、そう独り言のように呟き、月明かりの下で、しばらく畑を見つめ続けていた。
翌日、俺はダレンと共に、これまでの取引記録を、もう一度、丁寧に見直すことにした。
「グレッグ商会との取引を、完全に断つべきでしょうか」
ダレンが尋ねた。
「今すぐには、判断しない方がいいと思います。取引そのものを断てば、こちらの警戒が、相手に伝わってしまいます。むしろ、今は、条件を注意深く確認しながら、必要最小限の関わりに留めておくのが、賢明だと思います」
「敵を作らず、かつ、隙も見せない、ということですね」
「そうです。灰の谷は、まだ、真正面から大貴族家と渡り合えるだけの力を持っていません。まずは、この土地そのものを、揺るがない場所にすることが先です」
ダレンは、静かに頷いた。彼の帳簿には、この日、また新しい注意書きが、丁寧に書き加えられていった。




