兄弟の数字
クレインが灰の谷に滞在するようになってから、一月が経った。彼は最初の頃の反発を、少しずつ消していった。村の仕事にも、自分から関わるようになった。日差しに焼けた肌。以前より節くれ立った手のひら。その一月の変化を、何よりも如実に物語っていた。
「フィリア嬢の帳面を見せてもらったが、驚いた。これだけの情報が、たった一人の手で積み上げられているとは思わなかった」
クレインがそう言うと、フィリアは少し照れたように視線を逸らした。
「私は、数字を数えることしかできませんので」
「それこそが、価値のあることだ。魔力量では測れない力だと、今なら分かる」
クレインの言葉に、以前のような優越感の色はなかった。会議室の窓から差し込む午後の光が、卓上の帳面を静かに照らしていた。
そんな中、俺はクレインに、グレッグ商会と本領の関係について、改めて相談することにした。
「兄上。あの契約を結ぶ際、グレッグ商会の担当者から、何か言われたことはありませんか」
「――そういえば、担当者が一度、『中央の御方も、この取引を歓迎しております』と口にしていたな。深く考えずに聞き流してしまったが」
「中央の御方、というのは」
「名前までは聞いていない。ただ、王都の中枢に近い人物を指しているような口ぶりだった」
その情報は、これまでの断片的な手がかりに、また一つの繋がりを加えた。モーガン元代官の不正。グレッグ商会。そして王都中央の何者か。灰の谷という辺境の小さな領地の問題が、少しずつ大きな構図の中に位置づけられていく。俺は背筋に、僅かな緊張が走るのを覚えた。
「――俺が、知らずに危ういことに関わってしまっていたのかもしれないな」
クレインが珍しく、素直にそう漏らした。以前の彼にはなかった、率直な自省の響きがあった。
「兄上のせいではありません。灰の谷の実情を知らなければ、誰でも同じ判断をしたと思います。俺自身も、ここに来るまでは何も知りませんでした」
クレインは黒い夜空を見上げ、しばらく黙っていた。館の外、二人並んで夜風に当たりながらの会話だった。星の光が、いつもより鮮明に見える夜だった。
「ルーク。お前は、魔力ゼロと言われた時、どう思っていたんだ」
俺は少し考えてから答えた。夜風が、頬を静かに撫でていった。
「――測り方が違うだけだと、思っていました」
クレインは小さく笑った。皮肉げな笑いではなく、初めて見せる、素直な笑い方だった。
「その言葉、悪くないな」
翌日、クレインは本領へ戻る前に、もう一度、灰の谷の畑を一人で歩いた。彼が何を考えていたのかは、誰にも分からない。ただ、馬車に乗る時の表情には、着任した日には見られなかった、確かな落ち着きがあった。畑を歩く足取りは、一つ一つの土の感触を確かめるように、ゆっくりとしていた。
「――また来る。今度は、もう少し、長く滞在させてもらいたい」
クレインが、馬車に乗る前にそう言った。
「いつでも歓迎します。兄上が学びたいことは、まだ、たくさんあるはずです」
クレインは、小さく笑った。かつての彼からは、想像もできなかった、素直な笑顔だった。
灰の谷の夜は、静かに更けていった。まだ見えぬ本領の思惑と、王都中央に潜む何者かの影。物語は、まだ序盤を終えたばかりだった。
馬車が山道の向こうに消えていくのを見送りながら、フィリアが静かに言った。
「クレイン様は、この一月で、本当に変わられましたね」
「変わったのだと思います。ですが、これは終わりではなく、始まりかもしれません。兄上が知った灰の谷の実情は、これからも本領との関係を、少しずつ変えていくはずです」
「王都中央の、何者かの影については、どうしますか」
「サイラス老からの返答を待ちながら、俺たちにできることを、一つずつ積み重ねましょう。焦っても、答えは急には出ません」
フィリアは、静かに頷いた。夕暮れの光が、山道の向こうへ消えていく馬車の轍を、長く伸ばして照らしていた。灰の谷のこれからには、まだ数えきれないほどの試練が待っている。それでも、この一年で積み上げてきたものが、確かな土台として、俺たちを支えてくれる。俺は、そう静かに信じていた。
館へ戻る道を歩きながら、俺はふと、この一年を振り返った。魔力ゼロと蔑まれ、辺境へ送られた日から、まだ一年ほどしか経っていない。それでも、この土地で起きた変化の大きさは、前世で何十年もかけて築いてきたものに、決して劣らないと思えた。ダレンの変化。村人たちの表情。そして何より、フィリア自身の変わり方。数字だけでは測れないものが、この一年で、確かにこの土地に積み重なっていた。
「ルーク様。何を考えていらっしゃるのですか」
フィリアの問いに、俺は少し笑って答えた。
「これから起こることを、少しだけ想像していました。兄上が変わり、本領が変わり、そしていつか、この王国全体が、魔力量だけでは測れない価値を、認めるようになるかもしれない。そんなことを、考えていました」
「――大きな話ですね」
「大きな話です。ですが、始まりはいつも、こうした小さな一つ一つの積み重ねからです」
フィリアは、静かに微笑んだ。夕暮れの光の中、二人の影が、館へと続く道の上で、長く伸びていた。灰の谷の物語は、まだ、次の章へと続いていく。




