兄、灰の谷へ
クレインが灰の谷に到着した日、村には静かな緊張が走った。本領の嫡子が、辺境の小さな領地に「学びに来る」というのは、これまでの灰の谷にはなかった出来事だった。村人たちは、豪華な馬車から降りてくる本領の若君を、遠くから、遠慮がちに眺めていた。
「――ここが、お前の立て直した土地か」
クレインは馬車から降りると、まず畑の様子を見回した。ヨルガ草の畑、整備された水路、そして村人たちの落ち着いた表情。想像していたものと違う光景に、少し戸惑っているようだった。彼の視線は、灰の谷に着く前に想像していたであろう、荒廃した辺境の景色との落差に、何度も戸惑うように動いていた。
「まずは、この土地の数字を見てもらいます」
俺はクレインを会議室に案内し、フィリアとダレンに同席してもらった。フィリアが淀みなく灰の谷の状況を説明していく間、クレインは終始無言だった。時折、彼の視線が、フィリアの帳面と、俺の顔を、交互に往復していた。分厚い帳簿が、次々と卓上に積まれていく様子を、クレインは、まるで見知らぬ言語で書かれた書物を前にしたような表情で見つめていた。
「――これを、お前たちだけでやったのか」
「俺とフィリア嬢、ダレンさん、そして村の皆の力です。魔法で一気に何かを変えたわけではありません。一つ一つの数字を見て、少しずつ手を入れてきただけです」
クレインは、その言葉に何かを言い返そうとしたが、結局は口を閉じた。彼の中で、これまで信じてきた「魔力量こそがすべてを決める」という前提が、少しずつ揺らぎ始めているのが、俺にも見て取れた。
その日から、クレインは村での作業に加わることになった。最初は明らかに気乗りしない様子で、農作業の指示を渋々受けていたが、数日が経つ頃には、少しずつ変化が見え始めた。麦の束を運ぶ手つきも、最初のぎこちなさから、少しずつ、村人たちの動きに合わせたものへと変わっていった。
「――この区画、水はけがひどく悪いな。麦には向いていないだろう」
ある日、クレインが畑を見ながらそう呟いた。前世の記憶と観察を積み重ねてきた俺には当然の指摘だったが、クレインが自分の目でそれに気づいたのは、意外なことだった。彼は、土の表面に浮いた僅かな水の膜を、じっと見つめていた。
「その通りです。豆類なら育つ可能性があります」
「――何故、そんなことが分かるんだ」
「土の色と、水が引くまでの時間を見ればいい。魔力とは関係ありません」
クレインは黙り込み、それから静かに畑の土を手に取った。魔力量では誰よりも優れていた彼にとって、魔力に関係のない観察だけで土地の性質が分かるという事実は、これまで経験したことのない種類の驚きだったのだろう。彼は、その土を、しばらく指の間で確かめるように、揉んでいた。土の湿り気と、指先に残る僅かな冷たさに、彼はしばらく意識を向けているようだった。
村人たちも、最初は本領の嫡子という肩書きに、遠慮を見せていたが、クレインが真面目に作業に取り組む姿を見るにつれ、少しずつ、気安く声をかけるようになっていった。畑仕事の合間、村の子どもたちが、クレインの周りに集まって、その洗練された身なりを、不思議そうに見つめる場面もあった。
ハロルドも、クレインの様子を見ながら、静かに感慨を漏らしていた。
「本領の御方が、こうして土に触れる姿を見るのは、初めてでございます。ヴァイグレン家も、少しずつ、変わっていくのかもしれません」
俺は、その言葉に、静かに頷いた。灰の谷が変わったように、本領も、いつか、同じように変わっていくのかもしれない。
「クレイン様、鍬の持ち方が違いますよ」
オズワルドに、そう指摘されたクレインが、少し不満げな顔をしながらも、素直に持ち方を直す場面もあった。老農夫の手つきをじっと見つめながら、クレインは、生まれて初めて、身分の上下とは無関係な形で、誰かに指導を受けているのだと、内心で感じていたのかもしれない。
その夜、フィリアが俺に小さく言った。
「クレイン様、思っていたより素直な方ですね」
「悪い人間ではないんです。ただ、これまで、比べるべき相手がいなかっただけだと思います」
灰の谷に、新しい風が吹き始めていた。夕暮れの畑を歩くクレインの後ろ姿を、俺はしばらく、静かに見つめていた。その背中には、まだ完全には消えていない緊張と、それでも少しずつ、この土地に馴染み始めている確かな変化の両方が、同時に感じられた。
夕食の席で、クレインは珍しく、村の食事について感想を口にした。
「本領の料理よりも、随分と質素だが……悪くないな。この豆の煮込みは、初めて食べる味だ」
「東の試験区画で採れた豆です。土地に合わせて、少しずつ品種を選び直しています」
「――そんなことまで、お前がやっているのか」
「フィリア嬢の記録があってこそです。どの区画で何が育ちやすいか、彼女の帳面には、すべて記録されています」
クレインは、フィリアの方を見て、何か言おうとしたが、結局は小さく頷くだけに留めた。その夜、館の食堂には、これまでにない、静かで、しかし確かな温かさが流れていた。誰も声高に語ることはなかったが、それぞれの胸の中に、この一年の積み重ねが、確かな実感として広がっているのが感じられた。
食事を終えた後、クレインは一人、館の外に出て、夜の畑を眺めていた。俺がその隣に立つと、彼は少し驚いたような顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。月明かりに照らされたヨルガ草の畑が、風に合わせて、静かに波打っていた。
「――こんな景色を、お前は毎晩見ていたのか」
「毎晩ではありませんが、時々。この畑を見ていると、この土地がどれだけ変わったか、実感できるんです」
クレインは何も言わず、しばらくその景色を見つめていた。彼の横顔には、これまで見たことのない、静かな思索の色があった。魔力量という、これまでの人生のすべてを測る尺度とは、まるで違う基準で動いているこの土地のことを、彼はまだ、うまく言葉にできないでいるようだった。それでも、その静かな沈黙そのものが、クレインの中で何かが変わり始めていることの、確かな証だった。




