父の裁定
俺は父上に、直接会って話をする必要があると判断した。書状だけでは、この問題の重さを正確に伝えきれない。
半月後、俺はフィリアとダレンを伴って本領へ向かった。灰の谷を出るのは、赴任してから初めてのことだった。馬車が本領に近づくにつれ、景色は、灰の谷とはまるで違う、豊かな農地へと変わっていった。かつて、この景色の中で、自分が「無能」と呼ばれていたことを、俺は静かに思い出していた。馬車の窓から見える麦畑は、どこまでも緑豊かに広がり、灰の谷で見慣れた、乾いた土の色とは、まるで別の世界のように感じられた。フィリアも、その景色を、じっと黒い瞳で見つめていた。
本領の屋敷は、記憶にあるよりも大きく、そして静かに見えた。父上は書斎で俺たちを迎えた。クレインもその場に同席していた。俺を見るクレインの顔には、隠しきれない緊張があった。以前の優越感に満ちた表情は、そこにはなく、代わりに、何かに怯えるような、落ち着かない色が滲んでいた。
「父上。グレッグ商会との契約について、確認させていただきたいことがあります」
俺はそう切り出し、ダレンが持参した契約書の写しと、フィリアが作成した収支の比較表を、卓上に並べた。書類を並べる俺の手は、思っていたよりも落ち着いていた。感情ではなく、事実を伝えるのだという意識が、俺自身の緊張を、いくらか和らげていた。
「この条件では、灰の谷が受け取る利益は、これまでの直接取引の三割程度にまで落ちます。加えて、五年間の固定契約となっており、途中で条件を見直すこともできません」
父上は黙って書類に目を通した。長い沈黙が書斎を満たした。壁に並ぶ、代々の当主の肖像画が、その沈黙を、さらに重くしているように感じられた。父上の視線が、書類の数字の上を、何度も往復していた。
「クレイン。これは、お前が結んだ契約か」
「――はい。ヴァイグレン家全体の利益になると考え、独断で進めました。申し訳ございません」
クレインの声は、震えを隠せていなかった。彼の視線は、卓上の書類に固定されたまま、動かなかった。
「灰の谷の実情を、お前はどこまで把握していたのか」
「……詳しくは、把握しておりませんでした」
父上はしばらく目を閉じ、それから静かに口を開いた。
「実情を知らずに結んだ契約が、実情を知る者たちの積み上げてきたものを損なう。それがどれほど重い過ちか、お前にも分かるはずだ」
書斎の空気が、これまでとは違う重さを持った。父上の声は決して荒々しくはなかったが、その静かな響きの中に、これまで感じたことのないほどの厳しさが込められているのを、俺は肌で感じた。
「この契約は、私の名で破棄する。グレッグ商会には、正式な手続きの不備があったと通達する」
父上はそう告げ、それからクレインに向き直った。
「お前は、しばらく本領での実務を離れ、灰の谷でルークの下で学んでこい。実情を知らずに判断することの危うさを、身をもって学ぶべきだ」
その言葉に、クレインは大きく目を見開いた。俺自身も、予想していなかった裁定だった。フィリアも、隣で僅かに息を呑む音が聞こえた。
「――かしこまりました」
クレインは深く頭を下げた。表情には、屈辱と、それでも逃げられないという覚悟のようなものが、複雑に混じっていた。父上は、その様子を、しばらく黙って見つめていたが、最後に一言だけ付け加えた。
「灰の谷で学ぶことは、恥ではない。この家の未来にとって、必要なことだと思って行きなさい」
書斎を出た後、俺はクレインに、短く言葉をかけた。廊下の窓からは、本領の広大な庭園が見え、その向こうに、遠く霞んだ山々が連なっていた。
「兄上。灰の谷で、俺たちがどうやってこの土地を変えてきたか、ゆっくり見てもらえればと思います」
クレインは、俺の顔を、しばらく見つめていた。かつての優越感の色は、そこにはなかった。ただ、これから向き合うべき現実への、確かな緊張だけが見えた。
「――お前に、教えを受けることになるとは、思っていなかった」
「教えるつもりはありません。ただ、一緒に見てもらえれば、それで十分です」
その言葉に、クレインは、僅かに肩の力を抜いたように見えた。廊下を歩きながら、俺は、この兄との関係が、これから少しずつ変わっていくのかもしれないという、確かな予感を抱いていた。フィリアが、少し後ろから、俺たちの様子を、静かに見守っていた。
本領を辞する前、俺はもう一度、書斎の前で足を止めた。扉の向こうから、父上の低い声が、微かに聞こえていた。何を話しているのかまでは分からなかったが、その声には、これまで聞いたことのない、深い疲労と、何かを考え直そうとするような、静かな重みが感じられた。
馬車に乗り込む際、ダレンが小さく呟いた。
「まさか、クレイン様が灰の谷へ来られることになるとは、思ってもみませんでした」
「俺も、正直、驚いています。ですが、これは悪いことではないと思います。兄上が、この土地の本当の姿を知る機会になるはずです」
フィリアも、馬車の窓から、遠ざかる本領の屋敷を見つめながら、静かに頷いた。
「クレイン様が、灰の谷で何を学ばれるか、楽しみでもあり、少し不安でもあります」
「大丈夫です。あの土地は、誰にでも、必要なことを、きちんと教えてくれる場所です。俺自身がそうでしたから」
馬車が本領の門を出て、灰の谷へと続く道を進み始めた。窓の外に広がる景色が、豊かな農地から、少しずつ見慣れた山間の風景へと変わっていくのを、俺は静かに眺めていた。




