独断
本領では、クレインが焦りを募らせていた。父上への提案が受け入れられず、灰の谷への取引介入は「本領として関与するのは時期尚早」という結論で一度は落ち着いていた。だが、クレインはそれで納得できなかった。夜、自室の窓辺に立ち、彼は何度も同じ言葉を、心の中で繰り返していた。
「灰の谷が結果を出せば出すほど、私の立場が霞んでいく」
その焦りが、クレインを性急な行動に走らせた。彼は父上の名を借りる形で、独断でグレッグ商会の担当者と面会し、灰の谷を経由せずに、本領との直接取引を持ちかけたのだ。面会の場に選んだのは、王都の外れにある小さな商談所だった。父上の目の届かない場所で事を進めようとする、その選択そのものが、クレインの中に生まれていた迷いと焦りを、何よりも如実に物語っていた。
「灰の谷の代理領主殿には、後で私から説明する。今は、ヴァイグレン家全体の利益を優先すべきだ」
グレッグ商会の担当者は、その提案を歓迎した。彼らにとっては、灰の谷という小さな窓口よりも、本領という大きな窓口を通す方が、都合が良かったのだろう。担当者の目には、隠しきれない喜びの色が浮かんでいたが、クレインは、それに気づく余裕を持っていなかった。焦りに駆られた人間は、目の前の相手の表情の変化さえ、正しく読み取れなくなる。それは、前世でも、俺自身が何度か目にしてきた光景だった。
契約書には、クレインの署名だけが記された。父上の正式な承認を得ていない、独断の取引だった。
このことが灰の谷に伝わったのは、レイノルズが再び視察に訪れた際の、何気ない一言からだった。
「――クレイン様が、すでにグレッグ商会と取引を結ばれたと伺いましたが」
俺とフィリアは思わず顔を見合わせた。会議室の空気が、一瞬で張り詰めたものに変わった。
「いつの話ですか」
「半月ほど前だと記憶しております。てっきり、こちらにも話が通っているものと思っておりましたが」
俺はすぐにダレンを呼び、契約の詳細を確認できないか相談した。幸い、グレッグ商会側の担当者は、ダレンの古い知人でもあった。数日のうちに、契約書の写しが手に入った。ダレンが写しを卓に置いた時、彼の手は、僅かに震えていた。
内容を見て、フィリアの顔が険しくなった。
「この契約、灰の谷の取り分がほとんど残らない条件になっています。しかも、契約期間は五年と、長期に固定されています」
「クレイン兄上は、この条件の中身を、正しく理解していたでしょうか」
「――分かりません。ただ、少なくとも、この土地の実情を踏まえた条件ではないことは確かです」
ダレンが、契約書の細部を、さらに丁寧に読み込んでいった。
「この条件では、五年の間、灰の谷は、ヨルガ草の価格が上がっても、その利益をほとんど受け取れません。逆に、グレッグ商会は、需要が伸びれば伸びるほど、利益を独占できる形になっています」
俺は静かに息を吐いた。悪意があったのか、単なる焦りと知識不足の結果なのか。今の時点では判断できない。ただ、この契約がこのまま進めば、灰の谷がこれまで積み上げてきたものの多くが失われることになる。窓の外に広がる、この一年で確かに息を吹き返してきたヨルガ草の畑を、俺はしばらく見つめていた。この光景を、こんな形で失うことは、絶対に許せなかった。
「兄上に、直接この状況を伝える必要があります。ただ、感情的な非難ではなく、まずは事実を、正確に伝えることから始めましょう」
フィリアが、契約の問題点を、簡潔にまとめた資料を、その夜のうちに作り上げた。彼女の手つきには、もはや、迷いや戸惑いは見られなかった。蝋燭の灯りの下、彼女の筆が紙の上を滑る音だけが、静かな部屋に規則的に響いていた。
「――クレイン様は、これを見て、どう思われるでしょうか」
フィリアが、資料をまとめながら、そう呟いた。
「分かりません。ただ、感情的にならず、事実だけを、丁寧に伝えることが大切です。兄上を非難することが、目的ではありません」
「目的は、あくまで、灰の谷を守ることですね」
「そうです。それが果たせるなら、誰の面目が立とうが、立たなかろうが、それは二の次です」
ダレンも、この資料に目を通しながら、静かに頷いた。
「私からも、本領の会計担当に向けて、実務的な観点からの説明を、添えさせていただきます。感情論ではなく、数字で語れば、きっと伝わるはずです」
その夜、俺たちは、灰の谷の未来を賭けた、大切な資料を、丁寧に仕上げていった。窓の外はすでに深い夜を迎えていたが、会議室の蝋燭は、三人の作業が終わるまで、消えることなく灯り続けていた。誰も、疲れを口にしなかった。灰の谷のこれまでの歩みを守るための作業に、疲労を感じる余裕すら、この時の俺たちにはなかった。
資料が完成した頃には、窓の外がわずかに白み始めていた。フィリアが、最後の一枚を束ねながら、小さく息を吐いた。
「これで、伝えるべきことは、すべて揃ったと思います」
「あとは、兄上がこれをどう受け取るかです。俺たちにできるのは、正確な事実を示すことだけです。それ以上のことは、兄上自身が決めることになります」
「――ルーク様は、クレイン様のことを、恨んでいないのですか」
フィリアの問いに、俺は少し考えてから答えた。
「恨んでいるというより、心配している、というのが近いと思います。兄上は、悪意でこれをやったわけではないはずです。ただ、この土地の重みを、まだ知らないだけです」
その言葉に、フィリアは静かに頷いた。夜明けの薄明かりが、卓上に積まれた資料の束を、静かに照らし始めていた。俺たちは、その資料を、丁寧に麻紐で束ね、本領へ届けるための準備を、最後まで気を抜くことなく整えていった。




