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誰のための商い

本領からの書状を受け取った翌日、俺はダレンとフィリアを集め、対応を相談した。会議室の窓からは、朝の柔らかい光が差し込み、卓上に広げられた書状の紙面を、白く照らしていた。

「本領を通す形にする、という要求そのものは、無理筋ではありません。ヴァイグレン家全体の取引として扱われるのは、筋としてはあり得る話です」

ダレンが冷静に状況を分析した。彼の口調には、以前のような遠慮がちな響きはもうなかった。

「ただ、その分、灰の谷が直接得られる利益の一部が、本領側に流れる可能性があります。取引条件次第では、これまで見込んでいた収益が、大きく変わってきます」

フィリアが、すぐに計算を始めた。羽根ペンの先が帳面の上を滑る音が、部屋の静けさの中で、いつもより大きく響いているように感じられた。

「本領を通した場合の想定利益と、直接取引を続けた場合の利益を、両方出してみます」

数字が出るまで、俺たちはしばらく黙って待った。フィリアの筆先が帳面を滑る音だけが、部屋に響いていた。灰の谷の会議室には、この一年で、こうした緊張した沈黙が、何度も訪れていた。そのたびに、フィリアの数字が、次に進むべき道を、静かに示してくれていた。窓の外では、遠くで鳥の鳴く声が聞こえ、それが、この静かな緊張を、いくらか和らげていた。

「――本領を通す場合、灰の谷の取り分は、直接取引の六割程度まで落ちます。名目上の手数料が引かれる形になっているようです」

「六割では、今後の投資に回せる分がほとんど残りません」

俺はしばらく考え、それから一つの案を口にした。腕を組み、窓の外の畑を見つめながら、これまで積み上げてきた交渉の記憶を、頭の中で整理していた。

「本領の要求を、完全に拒むのではなく、条件を提示してみましょう。取引そのものは灰の谷が直接行い、その代わりに、本領には別の形で利益を還元する。例えば、ヨルガ草の栽培技術を、本領の他の痩せた土地にも展開する、という提案です」

「――技術そのものを、本領全体の利益にする、ということですか」

「そうです。灰の谷だけの成功として抱え込むより、ヴァイグレン家全体の利益として広げた方が、結局は父上にとっても、クレイン兄上にとっても、受け入れやすい話になるはずです」

フィリアが小さく頷いた。

「数字だけで対立するより、共に得られる形を示す方が、確かに通りやすいと思います」

ダレンも、この案に賛同した。

「私からも、本領の会計担当に、この提案の実務的な利点を、丁寧に説明する書状を、書かせていただきます」

その晩、俺は父上への返書を書いた。取引の条件、想定される利益、そして技術展開の提案を、できるだけ具体的な数字と共に記した。蝋燭の灯りの下、何度も文言を練り直しながら、俺は前世の記憶を頼りに、言葉を選んでいった。前世でも、本部との交渉で最も効果的だったのは、相手の取り分を減らす提案ではなく、双方の取り分を増やす提案だった。奪い合いではなく、増やし合う形を示せれば、対立は、案外あっさりと解ける。

書状を送り出した後、フィリアが少し不安げに尋ねた。

「これで、本領の動きは収まるでしょうか」

「分かりません。ただ、少なくとも、俺たちが一方的に守りに回るだけの立場ではないことは、示せたと思います」

数週間後、本領から返答が届いた。技術展開の提案を歓迎するという、これまでよりも柔らかい文面だった。取引の直接窓口についても、灰の谷が窓口を持ち続けることを、条件付きで認めるという内容が記されていた。

「――思っていたより、良い返答ですね」

フィリアが、書状を読みながら、静かに安堵の息を吐いた。その表情には、これまでの緊張が、ゆっくりと解けていく様子が見えた。

「クレイン兄上の思惑がどうであれ、父上は、結局のところ、数字と実利を見て判断する人です。俺たちが、正しい形で利益を示せば、その判断は、こちらに有利な方向へ動きます」

窓の外、夜の畑には、ヨルガ草の薄紫の花が、月明かりの中で静かに揺れていた。灰の谷の物語は、まだ始まりの段階を出たばかりだった。これから先、本領との関係、隣国の影、そして誰もまだ知らない疫病の兆し――俺たちの前には、まだ数えきれないほどの数字が、答えを待って積み重なっている。

「――この一年で、俺たちは、本当にいろいろなことを、経験してきましたね」

フィリアが、帳面を閉じながら、静かに言った。その声には、疲労と、それでも確かな充実が滲んでいた。

「まだ、始まったばかりです。ですが、この一年で積み上げてきたものは、きっと、これから訪れる、もっと大きな試練にも、耐えられる土台になっているはずです」

俺の言葉に、フィリアは、確かな微笑みを浮かべて頷いた。窓の外の月は、いつの間にか高く昇り、静かな光で、灰の谷の畑全体を、優しく包み込んでいた。

ダレンが会議室を後にした後も、俺とフィリアは、しばらくその場に残っていた。卓上に散らばった書状の束を、フィリアが一枚ずつ丁寧に束ね直していく様子を、俺は黙って見ていた。

「本領との関係も、これで一区切りついたと思っていいでしょうか」

「一区切り、ではあると思います。ただ、クレイン兄上が、この結果をどう受け止めるかは、まだ分かりません。むしろ、これからが本当の始まりかもしれません」

「――そうですね。人の気持ちは、数字のようには、簡単に割り切れませんから」

フィリアがそう言って、小さく息を吐いた。俺は、その言葉に、深く同意した。数字がどれだけ正確に物事を示しても、その数字を受け取る側の心までは、測ることができない。父上が最終的に実利を取ったとしても、クレインの中に残った焦りや苛立ちは、そう簡単には消えないだろう。俺たちは、その事実を、心のどこかで、静かに理解していた。

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