兄の焦り
レイノルズが本領に戻り、視察の結果を報告した数日後、ヴァイグレン本領の書斎では、父ゲイリウスとクレインが向き合っていた。窓の外には、灰の谷とはまるで違う、豊かに実った小麦畑が広がっていた。その豊かさの中で語られる灰の谷の話が、父上にとって、どこか不思議な響きを持っていることを、クレインは感じ取っていた。
「レイノルズの報告によれば、灰の谷の改革は、誇張ではないようだ」
父上の声には、複雑な感情が滲んでいた。体面のために切り捨てたはずの息子が、想像以上の結果を出している。喜ぶべきことなのか、警戒すべきことなのか、まだ判断がつかない様子だった。卓上に置かれた報告書を、父上は何度も読み返し、その度に、僅かに眉根を寄せていた。
「フィリア嬢という娘も、かなりの実務能力を持っているらしい。ダンスコット家には、婚約の条件を見直す動きがあると聞く。今のうちに、こちらから何か手を打つべきかもしれん」
クレインは、その言葉を聞きながら、内心で別のことを考えていた。
――弟が、注目される。
自分がこれまで当然のように受けてきた期待と称賛が、今、少しずつ違う方向へ流れ始めている。魔力ゼロと蔑まれていた弟が、誰も予想しなかった形で結果を出し、本領の会話の中心にまで入り込んでいる。それが、クレインにとって、思っていたよりも重い事実として響いていた。物心つく頃から、魔力量においてヴァイグレン家で最も優れているという事実は、疑いようのない揺るがぬ土台だった。その土台の下に、少しずつ、見えない罅が入り始めているような感覚が、クレインを落ち着かなくさせていた。
「父上。私にも、何か役目をいただけないでしょうか」
「お前には、いずれ家督を継ぐ役目がある。今は魔導騎士団での経験を積むことに専念しなさい」
もっともな言葉だったが、クレインの心には、微かな苛立ちが残った。魔力量では、常に自分が優位だった。それなのに、今、灰の谷という辺境の土地を巡って、自分の存在感が、確かに薄れていくのを感じていた。書斎を出た後も、その苛立ちは、なかなか消えることがなかった。
その夜、クレインは一人、本領の商会取引を担当する家臣を呼び出した。蝋燭一本だけを灯した執務室で、クレインの声は、いつもより低く、抑えたものだった。
「灰の谷が、ヨルガ草という薬草の取引を、王都のグレッグ商会と結ぼうとしているらしい。この件について、本領として何か関与できないか」
「灰の谷は代理領主様の管轄です。本領が直接介入するのは、少々……」
「介入とは言っていない。ただ、ヴァイグレン家全体の商取引の一部として、本領を通す形にできないか、という提案だ」
家臣はしばらく考え、それから慎重に頷いた。
「――検討してみます」
クレイン自身も、まだこれが明確な妨害だとは思っていなかった。ただ、弟だけの手柄として灰の谷の成功が語られることに、耐えられなかった。せめて、自分にも関わりのある成果にしたい。その気持ちが、後にどういう形で灰の谷に影響するのか、この時のクレインはまだ想像していなかった。家臣が部屋を出た後、クレインは一人、暗い執務室に残り、自分の中に生まれた焦りの正体を、まだうまく言葉にできずにいた。
数日後、灰の谷に一通の書状が届いた。本領の商取引担当を通じて、ヨルガ草の取引条件を「一度、本領で確認したい」という内容だった。
「これは、妨害でしょうか」
フィリアが書状を読んで、眉を寄せた。
「まだ分かりません。ただ、俺たちが直接動かせる範囲が、少し狭くなったのは確かです」
ダレンも、この書状を見て、少し険しい表情を見せた。
「本領を経由するということは、取引の条件そのものにも、本領の意向が反映される可能性があります。灰の谷にとって、必ずしも有利な条件になるとは限りません」
「クレイン兄上が、どういう意図でこれを進めているのか、まだ分かりません。ただ、悪意があるにせよ、単なる焦りだけにせよ、俺たちが対応を考えるべきことは変わらないと思います」
窓の外では、収穫祭の熱気が過ぎ去った灰の谷が、次の季節に向けて静かに動き始めていた。だが、その静けさの裏で、遠く本領の思惑が、少しずつこの土地に伸びてきていることを、俺はまだ半分しか気づいていなかった。
その夜、俺はフィリアと共に、これからの対応を、改めて整理し直した。窓の外は完全に暗くなり、机の上の蝋燭だけが、二人の顔をぼんやりと照らしていた。
「クレイン兄上の動きが、どこまで本気なのか、まだ読み切れません。ただ、対応を誤れば、これまで積み上げてきたものが、大きく揺らぐ可能性もあります」
「一つずつ、確実に対応していきましょう。焦って全部を一気に片付けようとすれば、きっと、どこかで綻びが出ます」
フィリアの言葉に、俺は静かに頷いた。灰の谷のこれまでの歩みは、常に、そうした地道な積み重ねによって、支えられてきた。焦りは、判断を鈍らせる。それは、前世の現場で、幾度となく学んできたことだった。フィリアの落ち着いた声を聞きながら、俺は改めて、彼女の存在が、この土地にとってどれほど大きな支えになっているかを、実感していた。
「兄上を、憎んではいませんか」
フィリアが、ふと尋ねた。俺はしばらく考えてから答えた。
「憎んではいません。ただ、兄上が、まだこの土地の実情を知らないまま、判断を下そうとしていることが、少し残念に思います。もし一度でも、この畑を歩いてくれれば、きっと違う判断をしたはずです」
「いつか、そういう機会が来るかもしれませんね」
「――そうだといいと思います」
蝋燭の灯りが、僅かに揺れた。窓の外では、夜風がヨルガ草の葉を撫でる音だけが、静かに響いていた。俺たちの前に積まれた書状の束は、まだ解決の見えない問題を、いくつも抱えたままだった。それでも、フィリアの隣で、こうして一つずつ、状況を整理していく時間そのものが、俺にとっては、何よりの支えになっていた。




