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本領からの使者

グレッグ商会からの申し入れをどう扱うか、俺たちが結論を出す前に、思いがけない訪問者が灰の谷に現れた。

本領から派遣された使者――名はレイノルズという、父上の側近の一人だった。彼は挨拶もそこそこに、館の会議室で開口一番こう言った。

「ゲイリウス様の命により、灰の谷の実情を直接確認に参りました」

歓迎する態度ではなかった。値踏みするような視線が、俺とフィリア、そしてダレンを順に見て回った。彼の身なりは、本領の格式を保った、几帳面なものだった。灰の谷の質素な会議室で、その姿は、どこか場違いにさえ見えた。糊のきいた上着の襟元や、綺麗に整えられた口髭が、簡素な木の椅子に座る彼の姿を、なおさら異質に見せていた。

「報告書の数字が本当かどうか、疑っておられるということですか」

「疑っているわけではございません。ただ、ヴァイグレン家の名を冠する領地で行われている改革です。本領として、実態を把握する必要があります」

もっともな理屈だった。前世でも、本部が現場の急な変化に対して「まず視察」という反応を返すのは、よくあることだった。急な変化には、良い変化であっても、必ず検証が必要になる。俺は、その反応そのものに、腹を立てるつもりはなかった。むしろ、こうした慎重さを歓迎すべきだと、内心では思っていた。数字だけの報告書よりも、実際に目で見て確認した結果の方が、後々、こちらにとっても有利に働くはずだ。

俺はレイノルズを、まず村へ案内した。ヨルガ草の畑、収穫祭の余韻が残る広場、そして書庫に積まれたダレンの帳簿。数字だけでなく、実際に動いている領地の姿を見せることに徹した。畑を歩く間、レイノルズの足取りは、最初こそ形式的なものだったが、次第に、ゆっくりとしたものに変わっていった。

「この短期間で、これだけの変化を?」

レイノルズの声には、隠しきれない驚きがあった。彼もまた、灰の谷がどれほど厳しい状況にあったかを、報告書の上で知っていたのだろう。畑を歩きながら、彼は何度も足を止め、村人たちの表情を、注意深く観察していた。土に触れる農夫の手つきや、子どもたちの表情の明るさまで、彼は丁寧に見て回っていた。

村を回る途中、フィリアが淀みなく数字を説明する場面に出くわすと、レイノルズの表情がさらに動いた。

「失礼ながら、あなたが――ダンスコット家のご令嬢ですか」

「はい」

「噪しで、代理領主様の婚約者だという話は伺っておりましたが、まさかここまで実務に関わっておられるとは、思っておりませんでした」

フィリアは静かに頭を下げただけで、それ以上は語らなかった。俺は、彼女の代わりに一言添えた。

「灰の谷の改革は、フィリア嬢の力なしには成り立ちません。それは、報告書にもすでに記しています」

レイノルズは帳面に何かを書き込みながら、小さく頷いた。その筆致には、最初に会った時よりも、確かに柔らかいものが混じっていた。

視察の最後、俺は彼にグレッグ商会からの取引申し入れについても相談した。夕刻、館の会議室に戻り、卓に用意された茶を挟んでの会話だった。

「この商会について、本領で何か情報をお持ちですか」

レイノルズの顔が、一瞬だけ強張った。その僅かな変化を、俺は見逃さなかった。

「――グレッグ商会は、王都でも名の知れた大商会です。ただ、その資本の出所については、いくつか噪しがございます。詳しくは、私の口からは申し上げにくいのですが」

「どういう意味でしょうか」

「……中央の、ある貴族家と繋がりが深いという話です。それ以上は、私も確かなことは存じません」

その言葉を聞いて、俺とフィリアは思わず視線を合わせた。モーガン代官時代の不自然な取引、そしてその裏にあるかもしれない本領の誰か。まだ形にならない疑念が、少しずつ輪郭を持ち始めていた。フィリアの手が、卓の下で、僅かに強く握られているのが見えた。

レイノルズが本領へ戻る前夜、俺は彼に、改めて礼を言った。夜の館は静かで、廊下の蝋燭の灯りだけが、二人の影を長く伸ばしていた。

「本領には、正確に伝えていただければ、それで十分です。良いことも、悪いことも、隠すつもりはありません」

「――正直に申し上げれば、来た時は、もっと荒れた領地を想像しておりました。ここまで丁寧に治められている土地を、久しぶりに見た気がします」

レイノルズの言葉には、公式な視察の枠を超えた、確かな本音が滲んでいた。彼は、最初にここへ来た時の値踏みするような視線とは、まるで別人のような表情を見せていた。

レイノルズを見送った後、フィリアが、ぽつりと言った。翌朝、館の前に停まる馬車を、二人並んで見送りながらのことだった。

「あの方も、最初は、私たちを疑う立場で来られたはずです。それでも、最後には、少し違う顔を見せてくれました」

「数字と、実際の景色は、嘘をつきません。それを、正しく見てもらえれば、疑いは、自然と薄れていくものだと思います」

俺たちは、レイノルズの馬車が、山道の向こうに消えていくのを、しばらく見送っていた。車輪の音が遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなるまで、俺たちはその場を離れなかった。彼が本領にどう報告するかは分からないが、少なくとも、灰の谷の実情を、正確に伝えてくれるだろうという、確かな手応えがあった。

「ダレンさんの帳簿も、レイノルズ様には、かなり印象に残ったようですね」

フィリアが、馬車の消えた方角を見つめながら、そう言った。

「数字の裏付けがあってこその視察です。あの帳簿がなければ、俺たちの言葉だけでは、どれほど丁寧に説明しても、疑いを完全に払うことはできなかったでしょう」

「これからも、こうした視察は増えるでしょうか」

「増えると思います。灰の谷が変わったことが、本領にとっても、無視できない事実になってきていますから」

俺はそう答えながら、内心では、レイノルズの去り際に見せた表情を思い出していた。値踏みするような視線で訪れた男が、最後には、確かな敬意を込めて頭を下げていった。その変化こそが、この一年、俺たちが積み重ねてきたものの、何よりの証だと思えた。館に戻る道を歩きながら、フィリアの足取りは、来た時よりも、幾分軽く見えた。

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