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広がる噂

収穫祭から数日後、灰の谷を訪れる行商人の数が、目に見えて増えた。ヨルガ草の噪しを聞いて、直接買い付けに来た商人もいたし、単に「変わった噪しの領地」を見に来ただけの者もいた。館の門前には、これまで見たことのなかった荷馬車の列ができることもあり、村の子どもたちが、その珍しい光景を見物に出てくるほどだった。

「辺境の貧乏領地が、代理領主の代で立て直っているらしい、という話が、もう三つ隣の領地まで届いているようです」

ダレンが、商人たちから聞いた話をまとめて報告してくれた。噪しというのは、思っていたよりも速く、そして正確でない形で広がるものらしい。

「魔法で一夜にして畑を豊かにした」

明らかに誇張された話まで出回っているという。ダレンは、その話を口にする時、苦笑いを浮かべていた。事実がどう変形していくのか、会計官として数字を扱う彼にとっては、いささか居心地の悪い現象なのだろう。

「浸透体質のことが、噪しの種になっていないか心配です」

俺がそう言うと、ダレンは首を振った。

「ご安心ください。噪しの中心は、あくまで『代理領主が独自の農地改革を行った』という話です。魔法云々は、話に色を付けたがる者たちの創作でしょう」

サイラス老の忠告を思い出す。浸透体質そのものが露見しない限りは、大きな問題にはならないはずだ。それでも、俺は改めて、自分の力を使う場面を、できるだけ人目のない時間に限るよう、気をつけるようになった。夜明け前の畑に一人で出るのも、その用心のためだった。誰かに見られて、良からぬ想像をされることだけは、避けなければならない。

その一方で、噪しが広がることには、明確な利点もあった。買い手が増えれば、ヨルガ草の価格はさらに安定する。灰の谷の名前が「立て直った土地」として知られるようになれば、これまで逃げ出していた領民が戻ってくる可能性すらある。俺は、その可能性を、決して楽観的すぎるものとは思わなかった。人は、希望の匂いを、思いのほか鋭く感じ取るものだ。

実際、祭りから半月ほどで、隣領から二世帯の農家が灰の谷への移住を申し出てきた。長年、人口が減り続けていた領地にとって、これは久しぶりの朗報だった。書記官が、その申し出の書状を持ってきた時、彼の声には、これまで聞いたことのないほどの張りがあった。

「移住者を受け入れる余裕は、まだ十分ではありませんが」

フィリアが帳面を見ながら慎重に言った。

「無理に増やすより、今の改革を安定させることが先です。ただ、これが良い兆候であることは間違いありません」

俺たちはその後、移住希望者への対応を、ダレンと書記官に任せることにした。少しずつ、館の中の役割分担が、以前よりも自然に回るようになっていた。誰が何を担当するかを、いちいち細かく指示しなくても、それぞれが自分の持ち場を、自然と見つけるようになっていた。前世で言うなら、組織が「回る」ようになった、という感覚に近かった。会議室の空気そのものが、以前の重苦しさから、少しずつ軽くなっていくのを、俺は肌で感じていた。

そんな中、フィリアが一枚の書状を持って俺の部屋を訪れた。夕刻、窓の外はすでに薄暗く、蝋燭の灯りが、彼女の持つ紙面を、頼りなく照らしていた。

「王都の商会から、正式な取引の申し入れが届きました。ヨルガ草を、今後継続的に買い取りたいという内容です」

「良い話ですね。条件は?」

「悪くありません。ただ、差出人の名前に、少し気になる点があります」

フィリアが指した署名を見て、俺は思わず眉をひそめた。

――グレッグ商会。

ダレンが密かに書き留めていた、モーガン代官時代の不自然な取引記録に出てきた、あの商会の名前だった。書状の署名を、俺は何度も見返した。整った筆致の中に、どこか、こちらの内情を見透かしているかのような、居心地の悪さを感じた。

「偶然、とは思えませんね」

「はい。ただ、今の段階で、この申し入れを拒む理由もありません。条件そのものは、悪いものではないので」

俺は、この取引にどう対応すべきか、慎重に考える必要があると感じていた。敵か味方かも分からない相手からの、悪くない条件の申し入れ。前世でも、こういう時に安易に飛びつくと、後で大きな代償を払うことがある。値の良い取引ほど、裏に何かが潜んでいる可能性を疑うべきだ、というのは、現場で何度も学んだ教訓だった。

「もう少し、調べてみましょう。グレッグ商会が、どういう相手なのか」

窓の外、ヨルガ草の畑には、変わらず穏やかな風が吹いていた。だが、その静かな風景の裏で、灰の谷を取り巻く事情は、少しずつ、複雑さを増していた。

数日後、ダレンが、王都の知人を通じて、グレッグ商会についての、もう少し詳しい情報を持ってきた。彼の表情には、これまでにない緊張が見えた。

「大商会というだけでなく、いくつかの貴族家とも、深い繋がりがあるようです。ただ、どの家がどう関わっているのかまでは、まだ分かりません」

「油断せず、様子を見ていきましょう。焦って判断を誤るより、まずは情報を集めることが大切です」

俺の言葉に、ダレンとフィリアは、それぞれ静かに頷いた。灰の谷の日々は、これまでと変わらず続いていたが、その足元には、少しずつ、見えない糸が、幾重にも張られ始めていた。

夜、館の自室に戻った俺は、蝋燭の灯りの下で、グレッグ商会の署名を改めて眺めていた。前世で言えば、突然の大口取引の申し入れというのは、店舗の売上を一気に伸ばす好機であると同時に、契約書の細部に潜む罠を見逃してはならない場面でもあった。安易な期待は、判断を鈍らせる。フィリアが淹れてくれた茶を口にしながら、俺は改めて、この土地を守るために必要なのは、勢いに任せた決断ではなく、地道な確認の積み重ねであることを、自分自身に言い聞かせた。

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