収穫祭への布石
本領からの返答は、思っていたより早く届いた。内容は、拍子抜けするほど短かった。
「当面、灰の谷の運営は代理領主に一任する。追って結果を確認する」
父上らしい、体面を保ったまま責任を先送りにする文面だった。だが、俺にとっては十分すぎる返答だった。少なくとも、改革を止められることはない。羊皮紙の端に押された家紋の印を、俺はしばらく指でなぞった。この短い一文の裏に、父上がどれだけの逡巡を抱えていたのか、想像するだけでも、可笑しさと安堵が同時に湧いてくる。前世でも、本部からの承認というのは、たいていこうした素っ気ない一文で届くものだった。だが、その一文の重みは、現場にいる者にしか分からない。
その頃には、灰の谷全体に、はっきりとした変化の兆しが見えていた。ヨルガ草の畑は順調に育ち、分割課税によって農家の手元に残る種籾も増えた。畑を歩けば、以前は乾いた土埃が舞っていた道の端に、雑草すら青々と根を張るようになっていた。ダレンは以前とは別人のように、率先して数字の確認と提案を行うようになっていた。書記官の仕事の遅さも、期限を明確にすることで、少しずつ改善されていった。館の空気そのものが、以前とは違う速度で流れているのを、俺は日々の中で感じ取っていた。
「今年の秋の収穫祭は、例年よりも盛大にできるかもしれません」
ハロルドが、久しぶりに明るい声でそう言った。皺の刻まれたその顔に、俺は初めて、老執事の若い頃の面影を見た気がした。灰の谷の収穫祭は、この数年、財政難を理由に規模を縮小し続けていたらしい。かつては近隣の領地からも人が集まるほどの祭りだったと、ハロルドは以前、ぽつりと語ったことがあった。
「せっかくの機会です。今年は少し趣向を変えてみませんか」
俺がそう提案すると、フィリアが興味を示した。
「趣向を変える、とは?」
「これまでの収穫祭は、収穫を祝うだけの行事だったと聞いています。今年は、この一年の改革の成果を、村の皆に分かる形で見せる場にしたいんです。数字の話は、村人には分かりにくい。でも、実際に増えた収穫物や、新しく育ったヨルガ草を並べて見せれば、誰にでも伝わります」
「――それは、良い考えだと思います。数字よりも、実物の方が、心に残りますから」
フィリアがそう言って、準備のための計画を帳面に書き始めた。羽根ペンの先が紙の上を走る音が、静かな会議室に規則的に響く。この頃には、彼女が何かを提案する時の顔つきが、以前とはまるで違って見えるようになっていた。無価値と呼ばれてきた娘ではなく、この領地の未来を共に描く一人の運営者としての顔だった。着任した当初、フィリアはいつも視線を落とし、自分の意見を口にすることさえ躊躇っていた。それが今では、迷いなく計画を立て、必要とあれば俺に異を唱えることさえある。その変化を目にするたび、俺は自分の胸の奥に、言葉にしがたい温かさが広がるのを感じた。
準備を進める中で、俺とフィリアが二人で村を歩く時間も自然と増えていった。ある日の夕暮れ、ヨルガ草の畑のそばで、フィリアがふと足を止めて言った。夕陽が畑を薄紫色に染め、風がヨルガ草の細い葉を静かに揺らしていた。
「――半年前、私はここに来た時、正直に言えば、何も期待していませんでした。誰にも必要とされない場所に送られたのだと思っていました」
「今は?」
「今は、この場所に来られたことを、良かったと思っています。あなたのおかげで、というより……自分自身の力で、何かを変えられるのだと分かったからです」
俺は何も言わず、ただ頷いた。前世でも、数字を武器にして現場を変える瞬間には、いつもこういう静かな手応えがあった。誰かに褒められることより、自分の見方が正しかったと確認できる瞬間の方が、ずっと大きな意味を持つ。フィリアの横顔を見ながら、俺はふと、彼女がここに来る前、ダンスコット家でどれだけの言葉を飲み込んできたのだろうかと考えた。数字を数えることしかできないと、何度自分に言い聞かせてきたのだろう。その積み重ねが、今、少しずつ解かれていくのを見るのは、俺自身にとっても、かけがえのない時間だった。
「収穫祭では、あなたも少し人前に出てもらえますか」
俺がそう言うと、フィリアは僅かに躊躇う顔を見せた。
「私が、ですか。数字を数えることしかできませんが」
「その数字が、この一年、この領地をどれだけ動かしてきたか。村の人たちに、きちんと伝えるべきだと思います。あなたが積み上げてきたものを、誰かの手柄にするつもりはありません」
フィリアはしばらく黙り、それから小さく頷いた。その沈黙の間、彼女の指が、着ている服の袖口を、無意識に握りしめているのに俺は気づいた。
「――分かりました。少し、怖いですが」
「怖いのは、初めて何かを試す時はいつもそうです。俺も、洪水の日はずっと怖かった」
その言葉に、フィリアは少しだけ笑った。夕暮れの光の中で見せたその微笑みは、俺の記憶に、いつまでも残るだろうと思えるほど、静かで、そして確かなものだった。
その一方で、王都に近いヴァイグレン本領では、別の空気が流れていた。
兄クレインは、父上の書斎で灰の谷からの報告書を目にし、しばらく言葉を失っていた。分厚い報告書の紙面には、見慣れない数字と、見慣れない地名が並んでいた。魔力ゼロと蔑まれ、体面のためだけに辺境へ送られたはずの弟が、誰も予想しなかった形で結果を出し始めている。その事実を、どう受け止めればいいのか、クレイン自身にもまだ分かっていなかった。
「――父上。灰の谷は、本当にルークが立て直しているのですか」
「報告書の通りなら、そうなのだろうな」
父上の声には、困惑と、僅かな期待が入り混じっていた。体面を重んじる男が、無能と切り捨てた息子の成果を、どう扱うべきか。まだ答えは出ていなかった。父上の指が、報告書の端を、何度も神経質に叩いていた。
クレインは報告書を持つ手に、僅かな力を込めた。指先が、紙の端を、僅かに折り曲げていた。
「父上は、ルークをどうされるおつもりですか。このまま灰の谷に置いておかれるのですか」
「今はそれで良い。だが……もし本当にあの土地を立て直すようなことがあれば、いずれ本領にも影響が及ぶ。お前も、そのことは頭に入れておくように」
クレインは頷いたが、内心では別の感情が渦巻いていた。生まれてから一度も、弟に劣ると感じたことはなかった。魔力ゼロの烙印を押された弟が、自分の知らない場所で、自分の知らない力を発揮している。その事実が、思っていたよりも大きく、クレインの心に影を落としていた。書斎を出た後も、クレインはしばらく回廊に立ち止まり、窓の外に広がる本領の豊かな農地を、無言で見つめていた。
灰の谷では、収穫祭に向けた準備が着々と進んでいた。だが、この静かな成功が、遠くない未来に、思わぬ嫉妬と妨害の種になることを、この時のルークとフィリアはまだ知らなかった。




