30.署名欄
積み上がっていた大量の書類が、見事に片付いた頃、ケイトが嬉しそうに新しいファイルを持って来た。
「……ケイト、笑顔で持ってくるのは止めてくれ」
「仕方ないじゃないですか。アイリさんが帰って来てくれただけで、こんなに綺麗に――」
確かに片付いた執務室に、手を広げて一回転した。
「それと、報告もあります。イースタンの件ですが……聞きます、よね?」
「勿論だ――アイリさん、少し良いですか?」
隣に座るアイリさんに声を掛けた。帰って来たばかりの頃と違って顔色も良いし、何より過保護が増したおかげで、とても楽しそうに仕事をしている。
「オホンッ。イースタンですが、領土侵入や諸々の罪を問われ、ウェルネシカ主導のもとに従属国になる手続きが取られています。それに伴い、今までの女性権利の観点も見直されることになりました」
「……そうか。まぁ、うちの国王ならそうすると思ってたけどな」
「だって、リク様が大切なアイリさんを置いてまでウェルネシカに帰ったのって……これが狙いだったんですよね?」
「まぁ……上手くいくかは、五分五分だったけど」
話しが見えないのか、疑問を抱いた彼女の顔がこちらに向いた。
「確か、正社員の書類を書いた頃でしたね。一度ウェルネシカの国王に会いに帰ったんです。そこで、確信はまだありませんでしたが、イースタンの過去と今について話し合いをしていました」
「……あの時……」
「中枢が腐れば、国が傾くのは時間の問題。それは、国民の生活に大きな影響を及ぼします。ですから、腐敗した制度だけを切り離し、国そのものは守る必要がありました」
「守る……?」
「はい。ヒリア王妃が望んだ未来は、誰かを虐げる国ではなく、誰もが正しく評価される国だったはずです」
見開かれた瞳に、希望が灯ったようにも見える。
「……変われるでしょうか」
「変わります。少なくとも、貴女が変えました」
「……リク様がそう仰ってくれるなら……大丈夫ですね。だって――私が変われたんですから」
ヒリアが苦しんだ理由とは、もしかしたら少し違うかもしれない。それでも、目の前で笑う彼女の苦しみが、少しでも溶けたなら……大使として此処に来て、心から良かったと思える瞬間かもしれない。
「――ところで……」
「…………」
ケイトが、見つめ合って笑う僕らの間に割って入って来た。
「――婚約、するんですよね?」
「あぁ、今ウェルネシカから取り寄せて……まさか」
「はい。そのまさかです」
さっきから笑って、大事そうにファイルを抱えてると思ったら……理由は、それか。
「先程到着したばかりですが、待ち侘びてると思いまして、こうしてお持ちしました」
ファイルを開くと、婚約誓約書と書かれた仰々しい書面が一枚だけ入っていた。
「アイリさん、これは――」
「随分と立派な紙ですね……。急いで持って来た、という事は、提出して期限が迫っているんですか?」
「んっ……、」
思わず、彼女の真剣な返しに笑いを堪え切れなくなってしまった。隣にいるケイトも「アイリさん……」と若干呆れている。でも、それが彼女らしい。
「アイリさん、よく読まれた方が良いかと」
「……え? は、はい……婚約……誓約書……婚約誓約書」
「僕らの婚約のための書類です」
「わ、分かりました。どちらに署名すれば宜しいですか?」
時間が無いと勘違いしてるのか、急いで持って来たケイトを困らせてはいけないと思ってるのか、あまりに可愛らしいやり取りだ。
「そうですね。急いで書けばそれだけ早く夫婦になれるかもしれません。ここに署名を下さい」
「分かりました」
自分の机からペンを持ってこようとする彼女を、ケイトが止めた。
「アイリさん、ストップ!!」
「え?」
「内容を読んでください!」
「婚約誓約書ですよね?」
「そうです!」
「でしたら問題ないかと」
「問題大ありです!!」
「ほら、ここです」
僕の代わりに、ケイトが指を差す。
『本誓約は両名の自由意思によって締結されるものとする』
「……自由意思」
「はい。アイリさんが嫌だと言えば、この書類に意味はありません。ですが、僕は署名していただけたら嬉しいですね」
「尚更……」
手に持ったペンから、僕に視線を移して微笑んだ。
「止める理由はありません。リク様に選んで欲しいし、私もリク様を選びたい。だから、問題ありません」
そう言って、彼女の署名欄に達筆なサインが書かれた。
「アイリさんのペン、お借りしますね」
そっと彼女の手から拝借し、自分の署名欄にサインした。たった一枚の紙切れだけど、僕らを繋ぐ大切な一枚。
誰かに決められたものではなく、僕らが自分の意思で選び取った未来だった。
「……グスッ……」
鼻を啜る音に振り向けば、ケイトが涙を拭っている。
「ケイト?」
「うぅ……アイリさんが……アイリさんがお嫁さんに――」
「まだ婚約だぞ?」
「それでも! 嬉しいに決まってるじゃないですかー!」
折角の婚約誓約書に、ケイトの涙が飛ばないようファイルを閉じた。
言葉には出さないし、一人噛み締めているけど……嬉しいに、決まってる――!




