19.自覚しかけた感情
周囲の生温かい視線を受けながら、仕事をしている……。ただ、資料を棚に戻そうとしただけで――
「アイリさん、その資料は重たいので僕が直します」
「だ、大丈夫です。いつもと同じですから」
「ダメです。貴女は今――」
「わ、分かりました。お願い……します」
「はい」
少しでも、砂時計で示した時間を過ぎれば――
「アイリさん、お茶が冷めますよ」
「あの……キリの良いところまで……」
「そうですね。では、そのページを読み終えるまで」
数分後。
「読み終わりました」
「では休憩です」
「……本当に、そんな心配しなくても――」
「アイリさん」
「はい……」
思わず、差し出された温かいお茶を受け取ってしまった。隣から感じる圧に……負けてしまう。
周囲から、くすくすと小さな笑い声が聞こえる。
「大使様、完全に保護者ですね」
「いや、あれはもう過保護通り越してるだろ」
「アイリさんも、だいぶ絆されてるな」
聞こえてしまった会話に、持っていたカップを落としかけた。
「ち、違います!」
「何がですか?」
リク様が真顔で問い返した。
「ケイト様、リク様を止めて下さい」
「良いではありませんか。予行演習と思えば」
「何の予行演習ですかっ」
何だか、仕事よりも疲れたような気がするけど、そんなこと口にしたら……もっとリク様からの制限が厳しくなると察して、口を噤んだ。
すると様子を見ていた周囲の職員が、「大使様、次は毛布でも持ってきます?」と揶揄い始めた。
でも、リク様には通用しないのか。
「必要なら検討します」
執務室が、一瞬静まり返った。
「本気ですか?」
「体温が下がると回復も遅れますので」
真面目に返答するリク様に、周囲が堪えきれず吹き出した。
「っ……リク様……!」
恥ずかしさで顔が熱くなる。
「何か、おかしな事を言いましたか?」
「言ってます」
「どの辺りが?」
「全部です……!」
「――おや……?」
心配そうな顔で覗き込んでくる。
「アイリさん、顔が赤いですよ。もしかして、熱があるんじゃないですか!?」
「あ、ありません。大丈夫ですっ」
「本当ですか?」
「リク様……そんなに見られては、仕事が出来ません……」
慌てて、冷えたお茶に手を伸ばしたのに。
「……っ、」
同時に伸びた指先が触れた。
「すみません」
先に離したのは、リク様だった。
けれど、指先に残った熱が消えてくれない。
「……アイリさん?」
「な、何でもありませんっ」
もう今日は、絶対に仕事へ集中出来る気がしなかった。
***
こんなに心配してるのに、彼女は「大したことない」と普通に仕事をしてた。
本当は、休んだって良いのに……。
それにしても、周囲は何故あんなに“過保護“と言うのだろう。心配して当然の状況なのに、どこがそんなに過保護だったのか。
「リク様、夕食の後はどうされるのですか?」
「どう、とは?」
「アイリさんがリク様のお部屋を使われるなら……リク様は、そのまま客間に行かれますか?」
普通に僕の部屋に入れただけなら、きちんと寝てるか確認も出来ない。それなら、自室と何ら変わりがない。
「……いや、彼女が寝るまでは。仕事は、客間のデスクに置いておいてくれ」
「かしこまりました」
夕食を済ませ、準備が出来たら僕の部屋に来るよう彼女に伝えた。曖昧な表情だったのは、やはりまだ仕事をするには万全の状態じゃないからだ。
今日の執務室での出来事を思い出しながら、思わずいつもの癖でベッドに仰向けで倒れ込んだ。
「ケイトは、何の予行演習と言ったんだ?」
その時、ふと寝具から彼女の香りを感じた。
今朝まで寝てた彼女の残り香に……またしても心臓が痛んだ。いよいよ、医者に診てもらった方が良いかもしれない。明日、ケイトに相談しよう。
――コンコンコン
控えめなノックの音と、彼女の名乗る声が聞こえた。
僕は僕で、ベッドから降り、痕跡を消すように布団を整えた。
「どうぞ」
「……失礼します」
ラフな寝間着姿と、一冊の本を抱えて彼女が、ひょこっと部屋を覗き込む。それがまた、可愛らしかった。
「何の本を持ってきたんですか?」
「これですか? 会計監査室のカリナ様からお借りした小説です」
カリナは、彼女より少し年上の切れ者だ。
鋭い観察眼で、あっという間にあの地位に登ってきた才女。思い起こせば、気にかける様子や会話する場面を何度も見た事がある。
「アイリさんも小説がお好きなんですね」
「……いえ。お恥ずかしながら、小説は初めてで」
「初めて?」
「はい。実家には私の目の届く場所にはありませんでしたので。ですが、人生勉強だからと教えてくれました」
「ちなみに、本のタイトルは?」
「えっと……【指先に残る熱】です」
――ガタンッ!
もたれ掛かっていたデスクから、バランスを崩した。
だってその小説は、かなり濃厚な恋愛小説で、一時期ウェルネシカ国内で話題を呼んだ恋愛指南書だから。
「読み終えたら、感想を言う約束をしてまして。リク様も読んだことが、あるのですか?」
「……あります。あの頃の僕は、あまり共感出来ませんでしたが、今は――」
「今は……?」
「……今は、少しだけ分かります」
今日、執務室で赤くなった彼女に、冷えてしまったけどお茶を渡そうと不意に触れた手の熱さ……。
しばらく熱を帯びたあの感覚は、確か小説にも同じような描写で描かれていた。
"――その熱が、彼女への愛だと気付いたのは、少し経ってからのこと"
思わず、彼女から顔を背けた。
急に熱くなった顔を冷ましてからでないと、振り返れない。もっと早く医者に診せるべきだった……!
「……リク様、大丈夫ですか?」
「問題ない。ちょっと、考え事をしてただけで……あ、そうだ。まだ仕事があったんだ。気にせず、ここでゆっくり休んで下さいね。小説も程々に、では――」
伝えられる限りを伝えて、部屋から出た。
バクバク暴れる心臓を押さえて、ゆっくり深呼吸する。
"――私のそばで頑張る、努力家の君が……好きだ"
次々に溢れてくる小説の文章。
不思議と重なる、彼女の姿。
止まらない……鼓動。
「……これは、まさか――」




