19話 馬車
フローレンスの指導のもと、まずは馬車の乗り方から始まった。
エルヴィンは店に来た客の馬車の乗り降りは何度も見ていたので、記憶のままに行動に移した。
ドアを開けて、セレスティアに右手を差し出したが、その手は緊張で少し震えている。
「お嬢様、お足元にお気をつけください」
エスコートする男性の言葉を真似して言ってみたが、その声が少し上ずってしまった。
セレスティアも緊張した面持ちで、そっと手袋をした手を添える。
ドキンッ!
エルヴィンの心臓が跳ねたが、それを悟られないようにぐっと我慢した。
でも、きっと顔は赤くなっている?はず……?
ところがセレスティアも、初めて乗る馬車の作法に余裕はなく、エルヴィンの些細な変化に気づいていないようだった
スカートの裾を踏まないように片手で軽く持ち上げて、ステップに足をかけるのだが、要領がつかめずにギクシャクしている。
一瞬ほっとしたエルヴィンであったが、いつものような余裕のないセレスティアを見て、思わず差し出した手に力が入ってしまった。
「エルヴィン、そんなに強く握ってはいけません」
フローレンスのお叱りが飛んで来た。
「あっ、申し訳ありません」
慌ててぎゅっと握った手を緩めた。
「あっ、わたくしが頼りないからですね。エルヴィン、ごめんなさい」
セレスティアが慌ててエルヴィンを見たが、その顔には申し訳なさそうな表情が浮かんでいる。
「い、いえ、それはないです。俺の不注意です」
お嬢様、こんなときにも、なんて優しいんだ……。
エルヴィンの心は、セレスティアで満たされていく。
馬車は、乗るよりも降りる方が難しい。
エルヴィンが先に降りて、セレスティアに手を差し出す。
乗るときと同じく、そっと手を添えるだけで優雅に降りないといけないのだが、慣れないうちは要らぬところに力が入り、優雅とは程遠い。
「視線を足元に向け過ぎずに、やや前方を見ると優雅に見えます」
フローレンスの指導が入る。
頭ではわかっているのだが、怖くてどうしても足元を見てしまう。
エルヴィンのエスコートで、何度も馬車の乗り降りを繰り返した。
しかし、普段から歩き方も姿勢もフローレンスに厳しく指導されていたセレスティアは、上手く乗り降りできるようになるのに、たいして時間はかからなかった。
「いいでしょう。よく頑張りましたね。それでは美術館に行きましょう」
フローレンスからやっと合格点をもらえたセレスティアは、優雅ににっこりと微笑んだ。
馬車から見る景色もセレスティアにとっては初めてのことで、窓から見える景色にソワソワしてしまう。
しかし、窓の外ばかりを見ていると、隣に座っているフローレンスに落ち着きがないと叱られそうで我慢していた。
「セレスティア嬢は、馬車は初めてでしたね。わたくしは、しばらくの間、何も見ていないことにしますから、ご自由になさって結構ですよ」
「先生、ありがとうございます」
ぱあっとセレスティアの顔が明るくなった。
それからは、窓にへばりつき、思う存分、窓から見える景色を楽しんでいた。
エルヴィンは目の前で嬉しそうにはしゃいでいるセレスティアを見て、普段大人びた口調で、無理して背伸びをしているように見えるけれど、本当はまだ10歳の女の子なんだなと、しみじみと思った。
そして、一週間前のことを思い出していた。
「エルヴィン、わたくし、外に出られるのですよ。先生が美術館に連れて行ってくれるのです」
マキ割りをしているエルヴィンのそばにやって来て、嬉しそうにそう話すセレスティア。彼女を見ていると、エルヴィンも幸せな気分になる。
「それは良かったですね。」
そう言えば、俺がここに来てから一度も敷地外に出たのを見たことがなかったな……。
「久しぶりに外に出られて嬉しいでしょう?」
「久しぶり? そうではないの。わたくし、生まれて初めて外に出るのですわ」
「えっ!?」
エルヴィンは絶句した。
10歳にもなっているのに、一度も外に出たことがない?
メリンダは母親と一緒に買い物に行っては、セレスティアに買ったものを自慢している。
メリンダの母親が無理でも、父親だって健在で、5歳までは実の母親と一緒に暮らしていたのに?
「あの、亡くなられたお母様とも、一緒に出たことがないのですか?」
「ええ。わたくしが覚えている限りでは。それに、お母様も一度も外に出たことはないっておっしゃっていましたわ」
「そ、そうなんですね」
お嬢様は、それがまるで当たり前のことのように話すけど、それって異常だ……。
エマーソン伯爵家は、どこかおかしい?
エルヴィンは、背筋に冷たいものが流れるのを感じた。




