EP 2
スリと督促状――女神のハンドバッグは空よりも軽い
「ぷはぁぁぁぁっ! やっぱこれよ、これ! 仕事終わりの(サボりだけど)ビールは最高ねぇぇっ!」
ホームセンター・タローマンのアウトドアコーナー。
俺が売り物として陳列していた最高級リクライニングチェアの上で、ピンクの芋ジャージ姿の駄女神・ルチアナが、だらしなく両足を投げ出して叫んだ。
彼女の足元には、すでに空になったプレミアムビールの空き缶が三本、コロンと転がっている。
「さぁさぁルチアナ様! 遠慮なさらず、もっと飲んでくださいませ! 枝豆もまだまだありますわよ!」
「あんた本当によくできた子ねぇ! それに比べてウチの天界の奴らときたら! 特にオリンのハゲ! 私の企画書も見ないで『PV率が足りないドイ』とか言って予算削るのよ!? カグヤの泥棒猫だって、たまたま『追放された月兎姫』の動画がバズったからって裏垢で私のことネチネチと……あーっ、ムカつく! もう一本ちょうだい!!」
赤ジャージのリーザが甲斐甲斐しく缶ビールのプルタブを開け、ルチアナはそれをヤケ酒のように煽っていく。
愚痴の内容が完全に「金曜の夜の赤提灯で管を巻く万年平社員」のそれだ。
世界神という絶対的な存在であるはずなのに、彼女の背中からは哀愁という名の加齢臭すら漂ってきそうだった。
俺は少し離れたレジカウンターから、その惨状を静かに見つめていた。
「ハルタ。現在の飲食代、プレミアムビール4本、厚切りベーコン2パック、ピリ辛枝豆。合計で銀貨1枚と銅貨5枚分に達した。……そろそろ止めるか?」
「いや、放置しろ。相手が神様だろうと、俺の店で飲み食いした分はきっちり『労働』で返してもらう。ツケが膨らめば膨らむほど、あとでこき使えるからな」
ブラック企業で培った搾取の理論を躊躇なく適用する俺の横で、アラトが「なるほど、合理的な投資だ」とタブレットに負債額を打ち込んでいく。
一方、接待の最前線にいるリーザの頭の中でも、俺たちとは別の凄まじい算盤が弾かれていた。
(よし……! ルチアナ様、完全に酔いが回って思考力が低下していますわ!)
リーザはニコニコと愛想笑いを浮かべながら、その視線をルチアナの傍らに置かれた『ハンドバッグ』へと向けた。
芋ジャージには似つかわしくない、ハイブランド風の黒いレザーバッグだ。
(神様といえば、無限の富と権力の象徴! きっとあのバッグの中には、金貨の束や、見たこともない宝石、あるいは高価な神のアーティファクトが詰め込まれているに違いありませんわ! ……私がこれだけ接待したのですもの、『おひねり(スパチャ)』として金貨の一枚や二枚、勝手に頂戴してもバチは当たりませんわよね?)
強欲な貧困アイドルは、息を呑んでバッグとの間合いを測った。
日々の公園での鳩の餌の奪い合いや、タローソンの廃棄弁当争奪戦で鍛え上げられた彼女の身のこなしは、もはや一流の暗殺者か義賊の領域に達している。
「あー……もう飲めない……月人君のライブ……行きたい……むにゃむにゃ」
ルチアナがリクライニングチェアの上で目を回し、だらしなく首を垂れた瞬間。
シュッ!
リーザの右手が、まるで音のない幻影のようにルチアナのハンドバッグへと伸びた。
チャックをミリ単位で静かにスライドさせ、内部へと手を滑り込ませる。摩擦音はゼロ。まさに神業の『スリ』である。
(さあ、来なさい金貨の束! 私の今月の家賃と、ステーキ肉のために!)
リーザは期待に胸を膨らませ、バッグの中身をガシッと掴み――それをこっそりと引きずり出した。
「……え?」
リーザの動きが、ピタリと止まった。
彼女の手に握られていたのは、金貨の束でも、輝く宝石でもなかった。
それは、分厚い『紙の束』だった。
しかも、ハンドバッグの持ち手の裏側には、小さく『質屋・ルナミス大黒屋(レンタル品)』というダサいタグがぶら下がっていたのだ。
(神様が……ブランドバッグを質屋でレンタル……!? しかも、この紙の束は……)
リーザは嫌な予感を覚えながら、その紙の束の一番上にあった、真っ赤な封筒の宛名を見た。
そこには、恐ろしいゴシック体でこう書かれていた。
『エンジェルスマートフォン・リボ払いご利用代金 最終督促状』
「っ!?」
リーザの顔から、スッと血の気が引いた。
震える手で封筒の中身をわずかに引き出し、明細書に目を落とす。
【ご利用明細】
・朝倉月人ファンクラブ プレミアム限定DVD-BOX…… 100,000円
・天界エステティックサロン(36回払い)…… 300,000円
・アイドル育成ソシャゲ 課金石(天井まで)…… 90,000円
・その他飲食代・エステ代等…… 510,000円
【現在のご利用残高: 1,000,000円(限度額到達)】
【今月のお支払い金額: 68,000円(※内、利息手数料 12,500円)】
【※警告:本状到着後、直ちにお支払いが確認できない場合、天界回収部隊(黒服)によるマグローザ漁船への強制労働執行となります】
「…………っ」
リーザは、声にならない悲鳴を上げて口元を両手で覆った。
(リ、リボ払い……! 支払額が一定になる代わりに、雪だるま式に利息が膨らみ続け、元金がまったく減らないという、この世で最も恐ろしい『悪魔の算盤』……!!)
リーザは貧乏だ。パンの耳をかじり、雑草をサラダにして食べ、ルナミスデパートのマッサージチェアで疲れを癒やす日々を送っている。
だが、彼女には『借金』だけはなかった。家賃は月末にキャルルに土下座して待ってもらうことはあっても、利息のつく借り入れだけは絶対に手を出さないという、底辺なりの確固たるプライドと防衛線があったのだ。
しかし、目の前でいびきをかいているこの『世界神』は違った。
神という絶対的な地位にありながら、アイドルの推し活と見栄のために限度額いっぱいまで借金を重ね、挙句の果てにリボ払いの沼に沈み、マグローザ漁船(遠洋マグロ漁業)への強制連行の危機に瀕している。
(この方……神様なんかじゃありませんわ。私よりも遥かに下の、正真正銘の『どん底』ですわ……!!)
リーザの脳内から、先程までの強欲な「金貨をすってやる」という計算が完全に消え失せた。
代わりに湧き上がってきたのは、同じ社会の底辺を這いずる者としての、海よりも深い『哀愁』と『同情』だった。
「……ううっ、オリンのハゲ……お小遣いちょうだいよぉ……」
寝言で涙ぐむルチアナを見て、リーザの瞳にもホロリと涙が浮かんだ。
(ルチアナ様……。あなたも、苦しかったのですね。見栄を張って質屋でバッグを借りてまで、自分を保とうとして……)
リーザは、すり取ろうとした督促状の束を、誰よりも優しく、シワにならないようにそっとハンドバッグの中へと戻した。
そして、チャックを完全に閉める。
その直後、リーザは自分の芋ジャージのポケットに手を入れた。
取り出したのは、今朝、近所のおばちゃんから施しでもらい、今日一日の大切なエネルギー源として残しておいた、大事な大事な『茹で卵』だった。
リーザはその茹で卵の殻を、テーブルの角でコンコンと器用に剥くと、両手でパカッと半分に割った。
少しだけ白身が多くついている、大きい方の半分。
彼女はそれを、眠っているルチアナの口元へと、そっと差し出した。
「ルチアナ様……。これを食べて、元気を出してくださいませ。……リボ払いは、絶対にダメですわよ」
リーザの声には、母のような慈愛と、底辺の絆が込められていた。
「……んむ? あむっ……モグモグ」
ルチアナは目を閉じたまま、差し出された茹で卵を咀嚼した。
そして、二日酔いと借金のストレスで荒れた胃に、卵の優しいタンパク質が染み渡ったのか。
「……おいひい……。なんか、すっごく温かい味がするぅ……うぐっ、ぐすっ……」
駄女神は、寝たままボロボロと大粒の涙を流し始めた。
「泣かないでくださいませ、ルチアナ様。明けない夜はありませんわ。一緒に、たくましく生きていきましょうね……」
リーザもまた、残り半分の茹で卵をかじりながら、ルチアナの肩を優しくポンポンと叩いて涙を流していた。
◆
レジカウンターからその一部始終を見ていた俺は、深い、深いため息をついた。
隣でアラトが、ストップウォッチを片手に首を傾げている。
「……ハルタ。リーザの奴、スリを働こうとしてバッグを開けた後、なぜか突然泣き出し、自分の貴重な食料(茹で卵)を対象に分け与えたぞ。彼女の強欲なアルゴリズムからして、完全に矛盾した行動だ。バッグの中に、毒ガスか精神汚染のトラップでも仕掛けられていたのか?」
「……いや、ある意味、毒ガスより凶悪な『現実』が入ってたんだろうよ」
俺は、茹で卵を分け合って涙を流す「芋ジャージの女神」と「芋ジャージのアイドル」の姿を見て、確信した。
あの女神は、間違いなくスッカラカンだ。
タダ飯を食いに来たどころか、マイナスの負債を抱えて現実逃避に来たに違いない。
「アラト。明日の朝から、労働シフトを再計算しろ」
「む? 追加の投資か?」
「違う。『最低賃金』での徹底的な回収だ。あの駄女神、完全に俺たちの店の戦力として組み込んでやる」
神だろうが何だろうが、俺の店でタダ酒を飲んで寝こけるなど許されない。
俺はバックヤードから、タローマンのロゴが入った「新人アルバイト用エプロン」を引っ張り出しながら、明日の朝の強制労働の準備を淡々と進めるのだった。
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