EP 9
決着――泥まみれの鬼教官と、ヤンデレ月兎の優しきハンカチ
「……よし。発着点、到着。サイドブレーキヨシ、エンジン(発電機)停止」
プスン、という音と共に、教習車の足元に設置されたガソリン発電機が静かに息を引き取った。
ルナミス魔導自動車教習所の広大なコース。そのスタート地点兼ゴール地点である白線の手前に、俺の教習車は1ミリの狂いもなくピタリと停止した。
山間部ルートでの「崩落した橋」という自然の猛威を、ホームセンターの単管パイプとアラトの架橋技術で物理的にねじ伏せ、その後も俺は規定通りの安全運転で全ルートを走り切ったのだ。
「終わったな、アラト」
「ああ。ハルタの運転アルゴリズムは、最後まで完璧な安定性を維持していた。これで文句を言われる筋合いはない」
俺がシートベルトを外して息をつくと、後部座席のアラトもエプロンの汚れを払いながら頷いた。
だが、助手席のギド教官だけは違った。
「はぁ、はぁ……っ! い、生きて帰ってこられた……! 谷底に落ちずに済んだ……っ!」
彼は両手で顔を覆い、荒い息を吐きながらシートに深く沈み込んでいた。
無理もない。魔導車に乗っているのに、道なき道に勝手に橋を架けられ、綱渡りのようなデス・ドライブを強制されたのだから。
だが、安堵の時間は一瞬だった。ギド教官はハッと我に返ると、血走った目で俺を睨みつけた。
「き、貴様ら……っ! あんなやり方が認められると思っているのか!」
教官は怒りに任せてドアを乱暴に開け、車の外へと転がり出た。
俺とアラトも、やれやれと肩をすくめながら外に出る。
「教官、認められるも何も、コースは完走しましたよ。道交法違反も一切ありませんでした」
「詭弁だ! あんな鉄の棒(単管パイプ)で作った橋など、教本には一切載っていない! 試験中に勝手に土木工事を始めるなど、言語道断だ! 貴様のような型破りな人間に、ルナミス帝国の公道を走る資格はない!」
完全に負け惜しみである。
教官は、後部座席からアラトが取り出して地面に置いたばかりの「泥まみれのアルミ足場板」を指差して、声を荒らげた。
「こんな泥にまみれた汚らしい板切れを使いおって! 試験は無効だ! 貴様は不合格だ、不合格ゥ!!」
教官が激高し、足元にあったアルミ足場板を思い切り蹴り飛ばそうとした、その瞬間だった。
ズルッ!!
「……あ?」
山道の大雨を含んだ泥がべっとりと付着したアルミ板。
その上を革靴で蹴りつけた教官の足は、摩擦係数ゼロの如く見事に滑った。
バランスを崩した彼の体は、宙で無様な放物線を描き――教習所のコース脇に設置されていた、泥水が溜まった深い排水溝へと、頭から真っ逆さまに突っ込んでしまったのだ。
バッシャァァァァンッ!!!
「ぎゃばばばばっ!?」
見事な水柱が上がり、ギド教官は泥水の中でカエルのように手足をバタつかせた。
「おいおい……大丈夫かよ」
俺が呆れて見下ろしていると、騒ぎを聞きつけた他の教習生(獣人族や兵士たち)がワラワラと集まってきた。
「おい見ろよ、あの鬼のギド教官が泥水に落ちてるぜ!」
「ぷっ……あはははは! なんだあのザマ! 泥ガエルみたいじゃないか!」
「ざまぁみろ、いつも俺たちを理不尽に怒鳴り散らしてる天罰だぜ!」
教習生たちから、容赦のない嘲笑が浴びせられる。
ギド教官は排水溝から這い上がってきたが、その姿は悲惨の一言だった。制服は泥とヘドロで真っ黒に汚れ、顔には枯れ葉が張り付き、プライドも威厳も完全に粉々になっていた。
「う、ううっ……!! 笑うな! 笑うな貴様らぁぁぁ!」
教官は屈辱に顔を歪め、涙目になりながら泥水を振り払った。
「カミシロ! これもすべて貴様のせいだ! 貴様がこんなふざけた板を持ち込んだから! 認めん……私は絶対に認めんぞ! 貴様に免許など絶対に発行してやるものか!!」
もはや教官としての採点基準などどこにもない。
ただの意地と、プライドを折られた小物の八つ当たりだ。
俺は小さくため息をつき、「ふざけんなよ」と言い返そうと口を開きかけた。
だが、俺が言葉を発するより早く。
「――お退きなさい」
凛とした、しかしどこか冷たい声が響いた。
周囲で笑っていた教習生たちが、その声の圧力に気圧されてサッと道を空ける。
待合室から歩み出てきたのは、月兎族のキャルルだった。
「ひぃぃぃっ! や、ヤンデレ兎!?」
昨日の「マッハ1でのカチコミ&強制的ポーション投与」のトラウマが蘇ったのか、ギド教官は泥まみれのまま、地面を這いずって後ずさりした。
「く、来るな! もうあんな劇薬は飲みたくない! 試験は不合格だ、私に近づく――」
ビクッ、と教官が身をすくませた。
だが、キャルルの瞳は、昨日俺を心配して狂乱していた時のヤンデレ特有の濁った色ではなかった。
ただ静かに、泥まみれで震える初老の男を見下ろしている。
キャルルは、教官の目の前でゆっくりと膝をついた。
「……あ、あの……?」
教官が戸惑う中、キャルルはエプロンのポケットから、彼女がお手製で刺繍した『人参柄のハンカチ』を取り出した。
そして、教官の顔にべっとりと張り付いていた泥と枯れ葉を、嫌な顔一つせずに、優しく丁寧に拭い始めたのだ。
「え……?」
「痛かったですね。泥水が目に入っていませんか?」
キャルルの声は、春の陽だまりのように暖かかった。
彼女は「困っている人」を目の前にすると、相手が自分たちを陥れようとした敵であろうと、理不尽な教官であろうと、計算も損得も抜きにして、反射的に手が動いてしまう性分なのだ。
「な、なぜ……。私は、カミシロを落とそうと、あんな理不尽なことを……」
「試験のことは分かりません。ですが、あなたは今、泥にまみれて怪我をしています。それを見過ごすことは、私にはできません」
キャルルがハンカチで泥を拭き取った後、彼女の手のひらから、淡く優しい『月光』の魔力が溢れ出した。
昨日のような暴力的な強制回復ではない。擦りむいた教官の膝の傷と、冷たい泥水で凍えた体を、じんわりと温めながら癒やしていく、極上の治癒魔法だった。
「……あぁ……」
教官の口から、張り詰めていた糸が切れたような、安堵の吐息が漏れた。
先程まで彼を嘲笑していた周囲の教習生たちも、キャルルのあまりにも無償の優しさを前にして、完全に口を閉ざし、静まり返っていた。
「お仕事、大変ですよね。でも、あまり意地を張りすぎないでください。あなたにも、帰りを待っているご家族がいらっしゃるのでしょう?」
「……っ!」
キャルルのその言葉に、ギド教官の目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
ネタキャベツに不倫未遂を暴露され、教習生に笑われ、泥水に落ちて、完全に独りぼっちになったと思っていた彼に、この異種族の少女は、何の打算もなく救いの手を差し伸べてくれたのだ。
俺は黙って、その光景を見守っていた。
力で理不尽をへし折るのは俺とアラトの役目だ。だが、へし折った後に残る「敗者の惨めさ」を救い上げ、胸糞悪い後味を消し飛ばしてくれるのは、いつだってこのキャルルの『底なしの優しさ』なのだ。
「……負けだ」
ギド教官は、キャルルに手を取られてゆっくりと立ち上がると、泥だらけの顔をくしゃくしゃにして笑った。
そして、俺とアラトの方へ向き直り、深く、深く頭を下げた。
「カミシロ……。お前は確かに、常識外れの運転手だ。だが、どんな悪路でも突破する知恵と、仲間の技術、そして……こんなにも優しい心を持った仲間がいる。お前たちが走る道に、危険など存在しないのだろうな」
「教官……」
「私の完敗だ。試験は……『合格』だ」
教官は泥だらけのポケットから採点ボードを取り出すと、不合格の欄につけようとしていたペンの軌道を無理やり曲げ、『合格』の欄に力強くマルを描いた。
そして、教習原簿に「卒業検定・合格」のハンコを、バァンッ! と高らかに押し付けたのだ。
「よしっ!」
俺は小さくガッツポーズを握った。
アラトが口の中で飴玉を噛み砕き、フッと口角を上げる。
「春太様! やりましたね!」
キャルルが嬉しそうに俺の元へ駆け寄ってくる。
待合室の窓ガラスの向こうからは、リーザ、ルナ、キュララの三人が、「やったー!」「スパチャ大爆発ですわー!」「おめでとうございますわ!」と大騒ぎしながらこちらに手を振っていた。
理不尽なルール、狂気の魔導車、ヤンデレの乱入、そして自然災害。
すべてのトラブルを「知恵」と「腕前」でねじ伏せ、「優しさ」で着地させた、長かった教習所生活。
ついに俺は、異世界ルナミス帝国における『魔導車両運転許可証』を手に入れたのだ。
「さて、アラト、キャルル。免許も取れたことだし、帰るか。ポポロ村で俺たちの『インフラの王(軽トラ)』が待ってるぞ」
「ああ。早速、村のセメント輸送ルートの策定に入ろう」
「ふふっ。安全運転でお願いしますね、春太様!」
俺たちは泥だらけの教官に軽く手を上げ、迎えに来る同居人たちの元へと歩き出した。
雲の隙間からは、夕暮れの赤い陽光が、教習所のコースを暖かく照らし始めていた。




