EP 9
時給の価値と店長の責任――駄女神が知る「当たり前の幸せ」
ポポロ村に夜の帳が下りる頃。
俺のユニークスキル【マンション】の最上階、そこから階段を一つ上がった先にある広大な屋上スペースは、ちょっとした『ビアガーデン』へと姿を変えていた。
ホームセンターのアウトドアコーナーから持ち出した、業務用の大型BBQグリル。タープテントにランタンの暖かな光。そして、キンキンに冷えた酒が詰まった大型クーラーボックス。
「……はぁ。疲れた。全身の筋肉が、まるで鉛みたいに重いわ……」
屋上の隅に置かれたビールケース(空箱)の上に、ピンクの芋ジャージにエプロン姿の女神ルチアナが腰を下ろし、深い、深い溜息を吐いていた。
午前中の品出し、午後のトラックからの荷下ろし、そして夕方の『天界の取り立て屋との死闘』。
永遠の17歳(自称)にして、普段は天界のふかふかなソファから一歩も動かない彼女にとって、今日という一日は、これまでの数千年間の神生を合わせたよりも過酷で、密度の濃い時間だったに違いない。
「……おい、駄女神。お疲れさん」
俺は、氷水でキンキンに冷やした『プレミアム缶ビール』を二本持ち、ルチアナの隣にあるもう一つのビールケースにどさりと腰を下ろした。
そして、水滴のついたそのうちの一本を、彼女の目の前へと差し出す。
「……え?」
ルチアナは、ぱちくりと目を瞬かせた。
「これ、売り物でしょ? 昨日の私の借金もまだ返し終わってないのに、こんな高いビール、飲んでいいの……?」
「これは奢りじゃねえよ。お前の『初任給』の前借りだ」
俺がそう告げると、ルチアナはハッとして自分のエプロンを見下ろした。
「時給銅貨8枚(800円)。今日お前は、きっちり8時間シフトに入った。計算すれば銅貨64枚の稼ぎだ。リボ払いの返済分を差し引いても、このビール一本を自分の金で買って飲む権利くらいは、十分にある」
プシュッ!
俺がプルタブを開けてやると、ルチアナは震える両手でその冷たい缶を受け取った。
「私の……稼いだお金で買った、ビール……」
彼女は、じっとその缶を見つめ、ゆっくりと口に運んだ。
コクン、コクン、と喉を鳴らして飲み込む。
「――――ッ!!」
瞬間、ルチアナの瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「な、なによこれ……っ! 昨日、リーザに開けてもらった時より……何倍も、何十倍も……美味しいじゃないの……っ!」
「そりゃそうだ。労働の後の最初の一口は、どんな高級な魔法薬にも勝るからな」
「う、ううっ……! 苦味が、炭酸が、疲れた体に染み渡るぅ……! 私、生きてる……! 働いて、生きてるわぁぁっ!」
ルチアナは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、プレミアムビールを猛然と煽った。
昨日、俺の店でタダ酒を飲んでいた時の彼女は、どこか現実逃避のような、罪悪感を酒で流し込むような飲み方をしていた。
だが今は違う。
自分の肉体を酷使し、価値を生み出し、その正当な対価として得た『報酬』の味を、魂の底から噛み締めているのだ。
「ぷはぁぁぁっ……! あぁ、もう最高……っ」
半分ほど飲み干し、ルチアナは袖で涙を拭った。そして、少しだけ真剣な目つきになって、俺の横顔を見つめてきた。
「ねえ、ハルタ。……なんで、あんなことしたのよ」
「あんなこと?」
「天界の取り立て屋から、私を庇ったことよ」
ルチアナは缶ビールを両手で包み込みながら、ぽつりとこぼした。
「あんたとアラトなら、あのバリアを物理でぶち破れるって分かってたわ。でも、相手は本物の神の執行部隊よ? 私はただの借金まみれの駄女神で、あんたの店で無銭飲食しようとした厄介者。見捨ててマグローザ漁船に送った方が、絶対にあんたたちにとって安全だったはずじゃない」
ルチアナの問いは、もっともだった。
このアナスタシア世界において、天界に逆らうことは世界のシステムそのものに喧嘩を売る行為だ。いくら俺たちが強くても、メリットのない危険な賭けである。
「それに……」とルチアナは続ける。
「あんたのその『ホームセンター』の知識と物資、それにアラトの技術があれば、ルナミス帝国どころか、この世界の覇王にだって簡単になれるわ。魔王ラスティアだって、獣王レオだって、あんたの現代兵器の前じゃ敵じゃない。……それなのに、なんであんたは、こんな辺境の村で、ただの『店長』なんてやってるのよ?」
神である彼女から見れば、俺の行動は不可解の極みだろう。
世界を支配できる力がありながら、なぜ小さな店にこだわり、たかが一人のアルバイトのために命を懸けるのか。
俺は、自分の缶ビールを一口飲み、夜空に浮かぶ月を見上げた。
「……覇王、ね。そんなもん、微塵も興味ねえよ」
「なんでよ?」
「俺は前の世界(地球)で、72時間連続残業が当たり前のブラック企業にいたんだ。毎日毎日、上司の怒号が飛んで、理不尽なクレームに頭を下げて、同僚が次々と心を壊して辞めていくのを、ただ見ていることしかできなかった」
俺は、自分の手のひらを見つめた。
今はホームセンターの業務でマメができているが、昔はただ、パソコンのキーボードを叩いて胃薬を飲むだけの、ひ弱な手だった。
「俺は、なんの権限もない、ただの平社員(歯車)だった。理不尽な暴力から自分を守ることも、泣いている後輩を庇うこともできなかった。……そんな俺が、異世界に転生して、いきなり世界を支配する『覇王』になりたいなんて思うか? 思わねえよ。俺が欲しかったのは、ただ一つだけだ」
俺は、ルチアナの目を真っ直ぐに見据えた。
「『自分の手の届く範囲の人間を、自分の責任で守り切れる力』だ」
ルチアナが、ハッと息を呑む。
「ここは俺の店だ。俺がルールを作り、俺が責任を取る場所だ。……だから、俺の店のエプロンを着てシフトに入っている従業員(お前)を、どこの馬の骨とも分からない黒服に連れ去られるわけにはいかねえんだよ。たとえ相手が神様だろうが、店長として、従業員を守るのは『当たり前』の義務だからな」
理不尽な力に屈しない。
そして、自分の手の届く範囲の日常を、絶対に手放さない。
それが、元社畜である神城春太の、異世界における唯一の『覇道』だった。
「……ハルタ……」
ルチアナの瞳から、再びポロポロと涙がこぼれ落ちた。
世界神として、何千年も上から目線で世界を管理してきた彼女。だが、リボ払いで首が回らなくなり、天界のシステムに見捨てられた時、彼女を『守る』と言ってくれたのは、他の神でもなく、ただの下界のホームセンターの店長だったのだ。
「う、うあぁぁぁんっ……! なによそれぇぇ、かっこよすぎるじゃないのよぉぉっ! オリンのハゲなんて、私が失敗したらすぐ自己責任だって切り捨てるのにぃぃっ!」
ルチアナは、ビールを持ったまま俺の肩に頭をぐりぐりと押し付け、子供のように声を上げて泣き始めた。
芋ジャージから漂う汗の匂いと、ビールのアルコール臭。女神としての威厳は完全にゼロだが、そこには確かな『人間臭さ』があった。
「おいおい、泣き上戸かよ。鼻水つけんな」
俺が苦笑いしながら彼女の頭を軽く小突いた、その時だった。
「春太さぁぁぁん!! アラト様が! アラト様が炭の火起こしに成功しましたわーっ!! 早く! 早くお肉を焼きましょう!!」
屋上の入り口から、赤ジャージのリーザがトングを両手に掲げて猛ダッシュで飛び出してきた。
その後ろからは、楽しそうに笑うシェアハウスの面々が続々と姿を現す。
「愚問だ。着火剤とバーナーがあれば、木炭の着火など15秒で完了する」
エプロン姿のアラトが、完璧な火加減に調整されたBBQグリルの前で、イチゴ味の飴玉をガリッ!と噛み砕く。
「春太様! 今夜は私が、極上の『肉椎茸』と『ロックバイソンのお肉』を、最高に美味しく焼いて差し上げますからね!」
キャルルが、手作りの人参ドレッシングと大量の食材を抱えて、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「ふふっ、お肉の横で、私が今日収穫した新鮮な『月見大根』と『太陽芋』も焼いてくださいませね!」
エルフのルナが、なぜか自ら野菜をスライスしながら優雅に微笑んでいる。
「みんなー! 『世界神の初任給(?)BBQパーティー』、生配信スタートするよー! スパチャでお肉のランクが上がるシステムだから、リスナーのみんな、どんどん投資してね!」
キュララがエンジェルスマホを宙に浮かせ、すでに完璧な配信態勢を整えていた。
「あ、コラ! キュララ! また私の顔を勝手に配信に乗せて……!」
ルチアナが慌てて涙を拭い、顔を隠そうとするが、もう遅い。
コメント欄には『駄女神泣いてて草』『店長イケメンすぎだろ』『(チャリーン♪)』と、温かい草とスパチャが乱舞していた。
「さあ、ルチアナ様! 泣いている暇はありませんわよ! お肉が焼けますわ!」
リーザがルチアナの腕を引き、BBQグリルの最前列へと連行する。
ジュウウウウウッ!!
網の上に並べられた肉厚の『肉椎茸』と、赤身の旨味が凝縮された『ロックバイソン肉』が、炭火に炙られて極上の脂を滴らせる。
タローマン特製の『醤油草ベースの焼き肉のタレ』の香ばしい匂いが、夜風に乗って屋上全体に広がった。
「あぁっ……! お肉……! 私の労働の結晶……!」
「いきますわよルチアナ様! 弱肉強食! 焼けたものから早い者勝ちですわ!」
「負けないわよ! 私だって時給稼いだんだから!」
底辺アイドルと駄女神が、トングをカチャカチャと鳴らしながら、網の上の肉を巡って血で血を洗う争奪戦を繰り広げる。
キャルルが「もう、お二人とも喧嘩しないでください!」と笑いながら肉を取り分け、ルナが天然で「あら、このお肉、まだ動いてますわよ?」と謎の部位(?)を焼き始め、アラトが「火加減のアルゴリズムが狂う」とブツブツ言いながら網の調整を行う。
騒がしくて、カオスで、でもどうしようもなく温かい時間。
俺は、少し離れたビールケースに座ったまま、その光景を静かに眺めていた。
手元の缶ビールを傾け、夜風を全身で受け止める。
「……ああ。平和だなぁ」
理不尽な天界の暴力も、ブラック企業での苦しい記憶も、すべてがこの美味い肉と酒、そしてバカ騒ぎする仲間たちの笑顔の中に溶けていく。
これこそが、俺がこの異世界で守りたかった『当たり前の幸せ(月下の宴)』だ。
どんな絶大な権力よりも、どんな強大な魔法よりも、この時間だけは絶対に誰にも譲らない。
「ハルタ! 何を黄昏れている! 早く来ないと、リーザとルチアナに肉をすべて食い尽くされるぞ!」
アラトが、トングで分厚いロックバイソン肉を掴みながら俺を呼ぶ。
「今行く! おいリーザ、ルチアナ! 俺の分のハラミを残しておけよ!」
「遅いですわ春太さん! 弱者は敗れ去るのみですわー!」
「もぐもぐ……お肉、最高ぉぉぉっ!」
俺は立ち上がり、笑顔で仲間たちの輪の中へと飛び込んでいった。
――だが、この幸せな宴の光景が、キュララの配信を通じて『月の世界』へと筒抜けになっていたことを、俺たちは知らなかった。
『……っ! きぃぃぃぃぃっ! あの泥棒猫、自分が借金で首が回らないくせに、なんであんなに幸せそうに下界でBBQなんてしてるのよぉぉぉ!!』
遥か彼方、月の世界。
ハイブランドに身を包んだ月の女神カグヤが、エンジェルスマホの画面(裏垢)をギリギリと睨みつけながら、嫉妬に狂った叫び声を上げていることなど、知る由もなかったのだ。
ホームセンターのインフラと、仲間たちの絆が交差するポポロ村の夜。
世界神を時給800円のアルバイトに引きずり下ろした俺たちの、次なるドタバタな日常の影は、すでに月明かりの下で静かに動き始めていた。
読んでいただきありがとうございます。
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