旅立ち
幽霊の正体が判明すると、スコルはさっそく屋敷の手入れに取りかかった。
まずは、長年閉ざされていた窓という窓を開け放つ。かび臭く淀んでいた空気が外へ流れ出し、代わりに爽やかな風が部屋の中を吹き抜けていった。
「これだけでも、ずいぶん違うな」
スコルは満足そうにうなずいた。
続いて庭へ出ると、腰の高さまで伸びた雑草を一本一本引き抜いていく。汗を流しながら半日ほど作業を続けると、荒れ果てていた庭は見違えるほどすっきりした。
さらに地面を平らにならし、街で買ってきた芝生を丁寧に敷き詰めていく。
ハヌンの街は、この地方の水瓶でもあるハヌン湖のほとりに築かれている。そのため水資源が豊富で、上下水道も整備されており、市民は安価に水を利用することができた。
スコルは水道から桶に水を汲むと、新しく敷いた芝生へたっぷりと撒いていった。
陽の光を浴びて水滴がきらきらと輝く。その光景を眺めながら、スコルはどこか誇らしげな気持ちになる。
つい先ほどまで「幽霊屋敷」と呼ばれていた場所が、少しずつ自分の家へと変わり始めていた。
「今日はこれで切り上げて、マルビの家へ戻るか」
スコルは夕暮れの空を見上げながら言った。
『いよいよ、あの三人に話すのだな?』
とフェルが問いかける。
「うん。みんな一緒に来てくれるといいんだけど……」
新しい屋敷で暮らせば、今よりずっと快適な生活が送れるはずだ。
だが、本当に三人がついて来てくれるだろうか――。
期待と不安が入り混じり、スコルの胸は静かに高鳴っていた。
『案ずるな。あの三人はお主を信頼しておる。きっと力になってくれるはずだ』
フェルの言葉に、スコルは小さくうなずいた。
「そうだね。まずは話してみよう」
そうして屋敷の戸締まりを済ませると、スコルは沈みゆく夕日を背に、マルビへの帰路についた。
「ただいま。みんな、いるかな?」
スコルは家に入るなり声をかけた。
三人が集まったのを確認すると、スコルは椅子に腰を下ろし、ゆっくりと口を開く。
「実は今日、王都ハヌンへ行ってきたんだ」
それからスコルは、今まであった出来事を順を追って話し始めた。
マルビにはもう長く住めないこと。
ハヌンで魔法剣士の洗礼を受けたこと。
冒険者ギルドに加入したこと。
そして、大きな屋敷を手に入れたこと。
さらに、ハヌンには学校があり、学ぶ機会にも恵まれていること。
そして最後に――。
「父さんが、ダンジョン詐欺に巻き込まれて奴隷にされているかもしれないんだ」
スコルは拳を握り締めた。
「だから僕は、父さんを助けに行こうと思う」
部屋の中に重い沈黙が落ちる。
三人は口を挟むことなく、ただ真剣な表情でスコルの話に耳を傾けていた。
やがてスコルは決意を込めた眼差しで三人を見回した。
「だから――僕と一緒にハヌンへ来てほしいんです」
そう言って深く頭を下げた。
「学校に行けば、私も薬師になれるの?」
サラが期待に満ちた目で尋ねた。
「ああ、もちろんだよ。薬師養成課程もあるし、パン職人養成課程もあるんだ。だからエマちゃんも通えるよ。卒業すれば、それぞれのギルドへの推薦状ももらえるらしいんだ」
とスコルが答えた。
「パン職人養成課程まであるんですね……」
エマは驚いたように目を丸くした。
だが、その横でミアはどこか遠慮がちな表情を浮かべていた。
「でも、本当に私たちまでついて行っていいのかい? あんたの迷惑にならないかい?」
その言葉に、スコルは首を横に振った。
「迷惑だなんて、とんでもないです。買った家は広いですし、弟たちもまだ小さいですから、いてくれるだけで助かるんです」
そして少しだけ申し訳なさそうな顔をして続けた。
「それに……皆さんの家がなくなったのは、もともと僕が原因です。だから、どうかそんなことは気にしないでください」
部屋の中に静かな空気が流れた。スコルの言葉には、三人を家族のように思う気持ちと責任感が込められていた。
「私、ハヌンに行くっ!」
サラは目を輝かせながら、真っ先にそう言った。
その言葉を聞いたミアは苦笑しながら肩をすくめる。
「まったく、この子は……。でも、そこまで言ってくれるなら、私たちのこともお願いしようかね」
「ええ、もちろんです!」
スコルは顔を明るくした。
「ありがとうございます!」
その声には隠しきれない喜びが滲んでいた。
こうして、スコルとミアたちはそろってハヌンへ移り住むことになった。
「ところで、引っ越しはいつ頃の予定なんだい?」
ミアが尋ねる。
「家はもう僕のものなので、いつでも引っ越せます。ただ……まだ掃除が終わってないんですよね」
スコルは少し困ったように頭をかいた。
するとミアが頼もしげに笑った。
「掃除なら私たちに任せな。最近は身体を動かす機会も少なくてね」
「本当ですか? それは助かります!」
「任せておきな。住む家を綺麗にするのも、住人の仕事だからね」
そういうわけで、翌日、ミアとサラを一足先にハヌンへ連れていき、屋敷の掃除を始めることになった。
翌朝、スコルは背負子の底板を広げ、二人が座れるように改良した特製の背負子にミアとサラを乗せると、王都ハヌンへ向かった。
街道を進み、丘を越えた先で、巨大なハヌン湖と王都の町並みが視界いっぱいに広がる。
「わあっ! おっきな街だね!」
サラは目を輝かせながら身を乗り出した。
「これが王都ハヌンかい……」
ミアも思わず息を呑む。
湖畔に沿って広がる街並みは、マルビとは比べものにならないほど大きく、美しかった。
「すごい街だねぇ……」
その声には驚きと感嘆が入り混じっていた。
三人は西門をくぐり、人々で賑わう通りを抜け、緩やかな坂道を上っていく。
やがて目的の屋敷が見えてきた。
「着いたよ」
スコルがそう言って立ち止まる。
「えっ……」
ミアは目を丸くした。
「ほ、本当にこれが私たちの住む家なのかい!?」
目の前には、マルビでは見たこともないような立派な屋敷が建っていた。
「中を見たい!」
サラは待ちきれない様子で飛び跳ねる。
「まだ全然掃除してないんだけどね」
苦笑しながらスコルは鍵を開けた。
重厚な扉がゆっくりと開く。
「わあぁ……広い!」
中へ駆け込んだサラが歓声を上げた。
広々とした玄関ホールに、高い天井。
窓から差し込む光が床を明るく照らしている。
「中もすごいんだね……」
ミアは感心したように辺りを見回した。
スコルは二人を連れて、一部屋ずつ屋敷の中を案内して回った。
「思ったより物が少ないね。これなら掃除もすぐ終わりそう」
ひと通り見終えたミアがそう言った。
三人は、まず物の少ない二階から掃除を始めることにした。
二階には物置として使われていた部屋がいくつかあったが、それ以外はほとんど空き部屋だった。部屋の隅にはベッドの骨組みや机、椅子などの家具が積み上げられている。
スコルはそれらを一つずつ運び出し、長年積もった埃や汚れを丁寧に拭き取っていった。
その間、ミアとサラは部屋の掃除を担当した。床をモップで磨き、窓ガラスや壁を水拭きしていく。
掃除を終えた部屋へ、スコルが綺麗になったベッドや机、椅子を運び込み、三人は手分けしながら次々と部屋を整えていった。
六人分の寝室が整うと、ミアは満足そうに部屋を見回した。
「これで布団さえあれば、エマや弟さんたちを連れてきても大丈夫だね」
「これから布団を買いに行こうと思うんだけど、他に必要なものはあるかな?」
スコルが尋ねると、ミアは少し考えてから答えた。
「今のところは特にないかな。でも、料理に使う調理器具がちゃんと揃っているといいんだけど」
「確かに、それは確認しておかないとね」
新しく買い揃える必要があるかもしれない。
三人は物置部屋の整理を後回しにし、一階の掃除へ取りかかることにした。
まず向かったのは台所だった。
棚や戸棚を調べてみると、鍋やフライパン、皿やカトラリーなど、必要な調理器具はひと通り揃っている。
「おお、これなら新しく買わなくてもよさそうだな」
スコルが安堵したその時だった。
石窯の隣に、見慣れない金属製の設備が据え付けられているのが目に入った。
長方形の鉄板と、その脇に取り付けられた細長い箱。
どう見ても普通の調理器具ではない。
「なんだ、これ?」
『ほう、これはマナヒーターだな。それにオーブンまで付いておる』
フェルが感心したように言った。
「マナヒーター?」
『簡単に言えば、魔力で鉄板を加熱する調理用の魔導器だ。鍋やフライパンを乗せれば、そのまま火を使わずに調理できる。もっとも、長い間使われておらんだろうから、今でも動くかは分からんがな』
そう言ってフェルは、装置の横にある細長い箱の説明もし始めた。
『そしてこれはエーテル・セルだ。特殊な魔石を用いてマナを蓄積する装置でな。もし内部の術式が生きておれば、マナを補充できるはずだ。試してみるがよい』
スコルは箱にそっと手を置き、マナを流し込んだ。
すると次の瞬間――
「おっ……!」
自分の体内からマナが吸い上げられていく感覚が伝わってくる。
まるで乾いた土が水を吸い込むように、エーテル・セルは次々とマナを取り込んでいった。
「マナが吸われていく……。ってことは、まだ壊れてないのかも!」
スコルは思わず顔を輝かせた。
『その様子だと、まだ現役のようだな』
「じゃあ、あれは? ゴミ箱じゃないよね? 何に使うの?」
今度はそう言って、スコルは部屋の隅に置かれた円筒状の器具を指差した。
『それはテリトリウムだな。食料保存用の次元折畳器だ』
フェルが答えた。
次元折畳器とは、内部に亜空間を形成する魔導器である。
次元折畳器といえば縮界系統の古代魔導器が有名だが、その縮界に用いられていた古代技術を、現代の職人たちが再現・再構築した結果、生み出されたのがテリトリウムである。
もっとも、再現品であるテリトリウムは技術的な限界から小型化が難しく、古代の縮界系統と比べると、どうしても大きな装置になってしまう。
ちなみに、次元折畳器の内部では時間の流れが外界の六十分の一にまで遅くなる。
つまり外で六十日が経過しても、内部ではわずか一日しか経っていないのだ。
そのため、肉や野菜、果物といった食料を長期間新鮮なまま保存できる。
まさに家庭用の巨大な保存庫とも言うべき便利な魔導器だった。
台所の確認を終えると、スコルは不足している物を買い揃えるため、商業区へ向かった。
やるべきことは山ほどある。
まずは寝室用に、ベッドへ敷くマットと布団を六人分購入した。
次に、屋敷の鍵が一つしかなかったため、錠前師の店へ向かい、合鍵を四本作ってもらうよう依頼する。
さらに、パンや穀物、調味料などの食料品を買い込み、石鹸や洗剤、掃除用具といった日用品も一通り揃えた。
そうして必要な物資を揃えたスコルは、屋敷へと戻った。
帰るなり、自ら磨き上げた骨組みだけのベッドにマットを敷き、その上へ布団を整えていく。
一台、また一台と寝床を準備し、やがて六人分すべてのベッドが完成した。
これで、いつでも皆を迎えられる。
スコルは満足そうに頷くと、一階へ降りてミアに掃除の進み具合を尋ねた。
「この調子なら、一階の掃除も今日中に終わりそうだよ」
ミアは額の汗を拭いながら答えた。
まだ昼前だった。
スコルの予想を上回る速さで作業は進んでいる。
それならば――。
「よし、だったらエマちゃんたちも今日のうちに連れて来よう」
当初はもう少し先になると思っていたが、この分なら問題ない。
そう決めると、スコルは残してきたエマと弟たちを迎えに行くため、マルビへ向けて足を運んだ。
マルビの家へ戻ると、ちょうどエマが焼きたてのパンを窯から取り出しているところだった。
香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がり、テーブルの上には次々と焼き上がったパンが並べられていく。
「エマちゃん、ハヌンの家が住めるようになったんだ。だから迎えに来たよ」
スコルがそう言うと、エマは目を丸くした。
「えっ!? もう住めるの? ちょうど今、パンが焼き上がったところなんだけど……」
「うん。思ったより早く準備が終わりそうでね。出発するなら、どれくらいかかりそう?」
エマは少し考えてから答えた。
「私たち、もともと何も持ってないからね。行こうと思えば、今すぐにでも行けますよ」
その言葉を聞いたスコルの顔が明るくなる。
「それなら決まりだ。新しい家へ行こう!」
「ふふっ、わかった」
エマは嬉しそうに微笑んだ。
そうしてスコルは焼きたてのパンを受け取ると、弟たちを家に残し、エマを背負子に乗せ、ハヌンへ向けて出発した。
「本当に……ここがスコルさんの家なの?」
ハヌンの屋敷に着くなり、エマは目を丸くして立ち尽くした。
その表情は、初めてこの屋敷を見た時のミアやサラとまったく同じだった。
「こんな立派な屋敷を買えたのは、アシネ村でみんなと出会えたおかげだよ」
スコルはそう言って微笑んだ。
「だから遠慮しなくていい。この家は僕だけの家じゃない。みんなの家なんだから、自由に使ってね」
エマは驚きと戸惑いの入り混じった表情で屋敷を見回した。
「こんなお屋敷に住めるなんて……夢みたい」
そう呟きながら、スコルに続いて家の中へ入る。
すると、一階で掃除をしていたミアが二人に気付き、手を振った。
「あら、もう来たのかい? ちょうどいいところだったよ。この皿はどこに置けばいいんだい?」
「それは飾り物のお皿だから、食器棚には置かなくていいからね」
「わかったよ」
ミアは頷くと、再び掃除に取りかかった。
一方のスコルは、まだ迎えに行かなければならない弟たちのことを思い出す。
「それじゃあ僕は、弟たちを迎えにもう一度マルビへ行ってきますね」
そう言い残し、スコルは踵を返した。
新しい家に全員が揃うまで、あと少しだった。
しかし、スコルはマルビへ向かう前に、手前にある隣町のラムリアへ立ち寄ることにした。
そこには、父の兄――叔父ヘクターの妻と息子たちが暮らしている。
スコルたちがこれまで住んでいたマルビの家は、もともとヘクターが若い頃に暮らしていた家だった。
長年、無償で貸してもらっていた家である。
これからハヌンへ引っ越す以上、一言も挨拶をせずに去るわけにはいかなかった。
ヘクターは炭焼き職人だった。
森の中で過ごす時間が長く、スコルはよく山へ連れて行ってもらった。そのため、スコルが得意とする山菜採りや森での知識の多くは、ヘクターから教わったものだった。
しかし数年前、ヘクターは流行り病に倒れてしまう。
さらに神鎖の森に魔物が現れるようになったことで、家業を継いだ息子たちも炭焼きの仕事を続けることが難しくなった。
その結果、一年ほど前に一家は森を離れ、ラムリアへ移り住んでいたのだった。
ヘクターの家の戸を叩くと、しばらくして扉が開き、叔母のジェニーが姿を見せた。
「あら、スコルじゃないの! 久しぶりだね。どうしたんだい?」
思いがけない来客に、ジェニーは目を丸くした。
「ご無沙汰しています、叔母さん」
スコルは軽く頭を下げた。
「実は、マルビを離れることになったので、そのご挨拶に来ました」
「ええっ!? マルビを離れるって、どこへ行くんだい?」
「ハヌンです。そこで仕事が見つかりまして」
するとジェニーは納得したように頷いた。
「やっぱり、神鎖の森に魔物が出るようになったからかい?」
「はい。その影響で、以前みたいに暮らしていくのが難しくなってしまって……」
スコルがそう答えると、ジェニーはどこか寂しそうな表情を浮かべた。
「そうかい……。今じゃ森の近くで暮らすのも楽じゃないからね」
そして気を取り直したように笑う。
「息子たちは仕事に出てるけど、せっかくだから夕飯でも食べていかないかい?」
「お気持ちは嬉しいんですが、今日はまだ迎えに行かなければならない人たちがいるんです。また今度、改めて伺います」
「そうかい。それなら仕方ないね」
ジェニーは少し残念そうにしながらも頷いた。
「ハヌンへ行っても頑張るんだよ。あんたならきっと大丈夫さ」
「ありがとうございます。落ち着いたら、必ず手紙を書きます」
そう言って頭を下げたスコルは、ふと思い出したようにインベントリへ手を伸ばした。
「ああ、そうだ。長い間、家を貸していただいたお礼と言っては何ですが、これを受け取ってください」
スコルが差し出したのは、七色の光を内側に宿した美しい魔石だった。
しかも一つではない。
ジェニーの手のひらに、二つの魔石がそっと置かれる。
「こ、これは……魔石かい?」
ジェニーは驚きのあまり言葉を失った。
その魔石は、ゴブリン村で手に入れたものだった。
売れば一つ金貨一枚にはなる品だったが、スコルは最初から売るつもりはなかった。
長年、自分たちに家を貸し続けてくれたヘクター一家への感謝として渡そうと、取っておいたのである。
「こんな高価なもの、受け取れないよ!」
ジェニーは慌てて魔石を返そうとした。
しかし、スコルは首を横に振った。
「いいんですよ。今までずっと家を貸していただきましたし、叔父さんには山のことをたくさん教えてもらいましたから。これは、そのお礼です」
そう言って、スコルはジェニーの手をそっと押し返し、魔石を握らせた。
ジェニーは手の中で七色に輝く魔石を見つめ、やがて困ったように笑った。
「まったく……あんたは昔から律儀な子だね」
そして、大切そうに魔石を胸に抱く。
「ありがとう。ありがたく受け取らせてもらうよ」
「こちらこそ、今まで本当にありがとうございました」
スコルは深く頭を下げた。
「叔母さんも、体に気を付けてください。それと、みんなにもよろしく伝えてください」
「ああ、任せておきな。ハヌンへ行っても元気でやるんだよ」
「はい」
最後にもう一度会釈をすると、スコルは歩き出した。
こうして長年世話になったヘクター一家へ別れを告げ、再びマルビへと向かうのだった。
マルビに着いたスコルは、家へ向かう前に、長年山菜を買い取ってくれていたジンの店へ足を運んだ。
店に入ると、帳簿をつけていたジンが顔を上げる。
「ジンさん、お久しぶりです」
その声を聞いたジンは目を見開いた。
「おお、スコルじゃねぇか! 久しぶりだな!」
ジンは席を立つと、スコルの姿をまじまじと眺めた。
「なんだか見ねぇうちに変わったな。たくましくなったっていうか、少し大人になったじゃねぇか」
「そうですか?」
スコルは照れくさそうに笑った。
「それで、今日はどうしたんだ?」
ジンが尋ねると、スコルは表情を引き締めた。
「実は、今日でマルビを離れることになったんです。最後にご挨拶をと思いまして」
「本当かよ!?」
ジンは驚いたように声を上げたが、すぐに苦笑した。
「まぁ、神鎖の森があんな状態じゃ仕方ねぇか。山菜採りだけじゃ食っていけねぇだろうしな」
「はい。これからはハヌンで暮らすことになりました」
「ハヌンか。大きな街だし、仕事には困らねぇだろう」
そう言うと、ジンは力強く笑った。
「お前は昔から真面目で働き者だったからな。どこへ行ってもやっていけるさ」
その言葉に、スコルは深く頭を下げた。
「今まで本当にありがとうございました。ジンさんにはたくさんお世話になりました」
「なに言ってやがる。俺だって、お前の採ってくる山菜にはずいぶん助けられたんだ。こちらこそ感謝してるぜ」
ジンはそう言って、スコルの肩を軽く叩いた。
「またこの町に来ることがあったら、顔を見せに来ます」
「ああ、その時は元気な顔を見せてくれ。頑張れよ、スコル」
「はい!」
スコルはもう一度頭を下げると、店を後にした。
店を出たあとも、しばらくの間、ジンは店先に立ったまま、去っていくスコルの背中を見送っていた。
家へ帰る途中、大声でスコルの名を呼ぶ者がいた。
「おい、空っぽのスコル!」
振り返ると、そこには以前にも絡んできた粗野な冒険者たちの姿があった。
「やっぱり空っぽ野郎じゃねぇか。まだ生きてたんだな」
男たちは嘲るように笑った。
スコルは相手にせず、そのまま歩き続けようとした。
すると男が声を荒げる。
「おい待てっ! 逃げる気か?」
「急いでいるので」
スコルは足を止めることなく答えた。
その態度が気に入らなかったのか、男は舌打ちをした。
「チッ、偉そうにしやがって。もうアーロンは守ってくれねぇからな」
その言葉に、スコルはようやく振り返った。
「そうですね」
そして淡々と言った。
「目の前で殺されましたからね」
男たちの顔から笑みが消える。
「それに、皆さんも案外しぶといんですね」
静かな口調だった。
だが、それだけに男たちの神経を逆撫でした。
「ふざけたこと言ってんじゃねぇぞ!」
激昂した男の一人が拳を振り上げ、スコルへ殴りかかった。
鈍い音が響く。
しかし――
スコルは避けようともしなかった。
まともに拳を受けたにもかかわらず、その身体は微動だにしない。
まるで岩でも殴ったかのようだった。
次の瞬間。
「いてぇぇっ!!」
殴りかかった男が悲鳴を上げた。
男は顔を歪め、自分の拳を押さえながら飛び退く。
「な、なんだこいつ!?」
拳は赤く腫れ上がり、指先は震えていた。
スコルと男たちの冒険者ランクは、表向きは同じ鉄級だ。
だが、その実力には大きな差がある。
幾度もの実戦を経験したスコルの実力は、すでに銅級以上の実力を有している。
さらに今のスコルは、魔魂パペットの身体に黒鋼製の鎧を纏っており、黒鋼は並の鉄とは比較にならない強度を誇る金属だ。
そんな装備を持つスコルにとって、長年、鉄級に留まっている冒険者の素手による攻撃など、痛痒にもならなかった。
むしろ全力で殴った側の拳が砕けそうになるほどだった。
だからこそ、悲鳴を上げたのはスコルではなく、殴りかかった男の方だったのである。
「大丈夫ですか?」
心配するような口調だったが、それがかえって男たちの顔を引きつらせる。
「お、お前……」
男たちは思わず後ずさった。
かつて自分たちが馬鹿にしていた『空っぽのスコル』は、もはや別人になっていた。
「お、おい!」
呼び止められても、スコルは振り返らなかった。
「空っぽ野郎!」
男が最後にそう叫ぶ。
するとスコルは少しだけ足を止めた。
「昔は、その呼び名が嫌いでした」
男たちは勝ち誇ったように笑う。
だが、次の言葉に笑顔が消えた。
「でも今は気にしていません」
スコルは静かに振り返る。
「空っぽだったからこそ、いろいろなものを入れられましたから」
そう言って微笑むと、今度こそその場を後にした。
男たちはしばらく何も言えず、その背中を見送ることしかできなかった。
スコルは家へ戻ると、さっそく引っ越しの準備を始めた。
もっとも、生きることで精一杯だったスコルたち兄弟は、もともと大した荷物を持っていない。
着替えや日用品をまとめるだけで、準備はあっという間に終わってしまった。
その後、スコルは最後の仕事として家の中を隅々まで掃除した。
床を掃き、窓を拭き、使っていた部屋を一つひとつ見て回る。
そして忘れ物がないことを確かめると、玄関の前に立った。
スコルは振り返り、誰もいなくなった家の中を静かに見つめる。
母親を失ったあと、弟たちと肩を寄せ合いながら暮らしてきた家だ。
雨風をしのぎ、飢えを耐え、泣いた日も笑った日も、この家で過ごしてきた。
決して立派な家ではなかったが、スコルにとっては大切な思い出の詰まった場所だった。
「……今までありがとう」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
そしてゆっくりと戸を閉めた。
もう、この家に戻ることはないかもしれない。
そう思うと、胸の奥に小さな寂しさが込み上げてきた。
スコルは気持ちを切り替えるように振り返り、弟たちへ声を掛けた。
「忘れ物はないよね?」
「ないよー!」
「だいじょうぶー!」
弟たちは元気よく答えた。
その声に思わず笑みを浮かべる。
スコルは弟たちを改良した背負子に乗せると、夕日に染まる街道へ足を踏み出した。
目指すは新たな住まいのある王都ハヌン。
沈みゆく夕日を背に、スコルは弟たちを乗せて街道を駆けていく。
その先には、家族みんなで暮らす新しい生活が待っていた。
スコルたちが去って間もなく、マルビの町は魔物大猛進に襲われ、壊滅した。
――序章 神鎖の森編 完――
第一章 王都ハヌン編 へ続く
神鎖の森編をお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると、とても励みになります。
また、ご感想や誤字報告なども大歓迎です!
次章からは舞台を王都ハヌンへ移し、スコルたちの新たな生活と冒険が始まります。
引き続き応援していただけると嬉しいです。
今後ともよろしくお願いいたします。




