海賊のカイル
月の無い夜だった。
こういう夜は海に出ない、というのは親父が俺に唯一残した、格言とでもいうのだろうか、まあ、そんなものだ。だから俺は、月の無い夜は海に出ないことにしている。
そしてまあ、海に出ないとなるとやることはひとつなわけで。
「なにか、香りのいいのをくれ」
仕事で訪れた港町にある酒場だった。けしてオシャレとはいえないそれのカウンターでそう注文する。くたびれたような顔をした店主はこちらを一瞥するとすぐに背を向けて棚の一番上へと手を伸ばしたようだった。そして掴んだその酒をグラスに注ぐと、カンと音を立てて俺の目の前に置く。無愛想な店主はこれが何だとも言わずに俺の顔をじろりと見ると、すぐに目をそらして向こうへと行ってしまった。こんなぼろい酒場に初めから期待しちゃいないし、いいんだけどさ。しかしフロアにお姉ちゃんのひとりぐらいいてもいいだろうに。ま、今日は外れだったってことで諦めるか。ああ、なんだ、このアップル・ブランデーはうまいじゃん。
カタリと、椅子の動く音がした。
どうやら椅子をひとつあけた隣に誰かが座ったらしい。気配からしてお姉ちゃんじゃねえな、じゃあどうでもいいや。そう思ってアップル・ブランデーの香りを楽しんでいたのだが。
「あんた、海賊か」
しわがれた声のそれは明らかに、俺に向けられた質問だった。じじいにはますます興味はねえが、海賊かと聞かれて黙ってはいられない。
「じじい、海賊なんかに何の用だよ」
そう答えを返しながらじじいの方を見てみると、黒いコートに身を包み、これまた黒い中折れ帽を目深にかぶったじじいがこちらを見ていた。その眼差しはくたびれた目元に反してとても力強くて、けれどそれでいてどこか、うつろのように見えたのだった。
海賊に対して、海賊か、と聞いてくる奴は実はたまにいる。それはたとえば定期船の無い島への移動手段として声をかけてくる人間だったり、普通の船ではてこずるような荷物を運んでほしい人間だったりする。まあ、合法的なことならいいんだけどさ。ごくまれにだが悪い奴もいるもんで、だいたいそういうやつはどこかはぐれ者のような目をしているからわかるんだな、俺は。で俺は一応マーリンがバックにいる以上そういうのを取り締まらないといけない立場なわけで。
だからつまり今俺は、このじじいをとても警戒している、ということなのである。
じじいは俺の警戒を感じ取ったのかそうでないのか、わからないけれど、俺の方へと視線を向けたまましわがれた声でこう言った。
「海賊は、宝を奪うもんだろう」
宝って。昔話に出てくる海賊じゃあるまいし。
「じじい、あんたいつの時代の話してるんだよ?」
それとも隠語か何かか?俺がそう言うと、じじいは俺の言葉には応えずに懐から何かを取り出した。そしてそれをカウンターに置くと、俺の方へと寄せてよこすのだった。
それは、赤茶けた一枚の紙のようで。よく見てみれば、描かれているのは、海図?
「そこにある宝を奪って、そして、守ってくれ」
そこ、というのはこの海図上にある大きくバツの描かれた場所、なのだろうか。
「報酬は、ここにある」
じじいはそう言うとまた懐から何かを取り出すとカウンターに置いた。カチャリと音を立てたそれはまるで金のように輝いている。手に取って見てみるとそれは、精巧な装飾の施された鍵だということがわかった。ここにあるって、金庫の中身を全部やるってことか?いやまて、だいたい宝を奪って守ってくれっていう依頼の意味からしてわからんぞじじい。
「おいじじい…」
こちらの言葉をまったく無視して話を進めていくじじいに文句を言ってやろうと顔を上げたのだが。
「…は?」
じじいは、こつ然と姿を消していた。
慌てて小さな店内を見回すと、入口の扉がきいきいと音を立てて前後に揺れているのが見えた。あのじじい、一方的に言いたいことだけ言って出ていきやがった。いや、じじいの足だ、追いかければつかまるかもしれない。ああ、こんなときでも金を払って行かねえとなんて思うのはマーリンのクソ真面目さがうつったな、くそ。ええい、適当に何枚か置いていきゃいいだろ、釣りはいらねえよ。
そうしてようやく入口を飛び出てじじいの姿を探したのだが、表の通りにはじじいどころか人ひとり歩いてはいなかったのだった。
「…なんなんだよ、いったい」
ああ、狐につままれたような顔ってのを、今俺はしてるのかもしれないな。




