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 カイルさんが交番に現れたのはそれからしばらく経ってからのことだった。

それは、月末の予定を明日に控えた日だったのである。


「やっほーマーリン、嬢ちゃん」

「カイルか、何しに来たんだ」


 駐在さんはあの大笑いした日以来、少しだけカイルさんに対する態度がやわらかくなった。あまり怖い顔で睨まなくなったのだ。



「うん、ちょっと掃除屋さんに依頼をね」

「わたしですか?」


 カイルさんはわたしに依頼があるのだという。わざわざわたしを掃除屋さんと呼んだということは掃除の依頼、だよね。


「うん、あのね、俺たち明日の夜中に出港するんだ」

「そうなんですか」



 カイルさんたちの船は不定期にこの町へやってくる。そしてしばらく滞在したあと、また突然出港していくので今回もまたその時期が来たのだと思った。けれどカイルさんはどこか浮かない顔をしている。


「で、今回は遠くの海に行くからしばらくこの町には戻らないんだよね」

「えっ」


 不定期といってもひと月に一度くらいは来ていたカイルさんたちの船。でも浮かない顔で今回はしばらく戻らないとカイルさんは言う。どのくらいかはわからないけれど、カイルさんの表情からしてほんとうに長い期間なのかもしれない。


「だからさ、その前に嬢ちゃんに俺たちの船を掃除してもらいたいんだ」


 カイルさんからの依頼。それは依頼というよりお願いかもしれなかった。


「わかりました、そういうことなら引き受けます」


 そんなカイルさんからのお願いを、わたしは引き受けないわけにはいかない。掃除屋さんとして、またはカイルさんのお友達として。わたしが了承の返事を返すとカイルさんはぱっと顔を明るくしてくれた。それから駐在さんに向かって、いいよなマーリンと呼びかけた。駐在さんはいつもと同じぐらいの怖い顔で、アカネが引き受けたなら俺は何も言わないと言った。

 カイルさんの船の掃除は翌日、漁船の掃除を終わらせてからとりかかる約束をした。


 そして約束の当日。いつもの月末の日と同じように港へ向かい、まずは漁船の掃除にとりかかる。いつも以上に漁師のおじさんたちが話しかけてくることの他は特に変わったことはない。セイくんがどこか神妙な面持ちで、お前泳げるのか、どれぐらい泳げる?と聞いてきたことの他も特に変わったことはなかった。わたしは遠泳で4キロは泳いだことがあると主張するとセイくんはほっとした表情を浮かべた。なんなのだろう、来月には寒中水泳大会があるとか?

 全ての漁船の掃除を終えると、いよいよカイルさんの船を掃除する番だ。停泊している船へ向かうと、カイルさんが船の前で待ってくれていた。



「や、嬢ちゃん、それじゃお願いするね」

「はい、まずは中から掃除したいんですけど、どこまでやりますか?」


 どこまで、というのは船内の各部屋まで掃除するのか、それとも共用部分だけ掃除するのかを聞いたのだ。各部屋はプライベートなところもあるだろうしもしかしたら入ってほしくないかもしれない。



「そうだね、部屋はちょっと女の子には見せらんないから廊下とかそういうとこだけ掃除してくれるかな?」

「わかりました」


 カイルさんのそのような指示を受けてわたしは船内の掃除を始める。

 マスクをつけて、はたきを手にする。まずは天井や壁のほこりをはたきおとすのだ。はたきはこの世界には無かったので布を裂いて棒にくくりつけたわたしお手製のはたき。これで天井や壁をばたばたと叩けば出るわ出るわ、ほこりが。マスクをつけているのに思わずせきこんでしまう。長くこの仕事を続けていると、これだけほこりがたまっているのを見てなんだか燃えてくるようになってしまった。すべてはたきおとしてふき取ってやる、とわたしは更に気合いを入れた。


 ところで、わたしが隅から隅まで掃除をしているこの廊下は甲板の下部分にある。つまり窓が無く、外の様子がわからないのだ。加えて掃除に熱中しているとわたしはよく周りが見えなくなる。

 だからわたしが違和感に気が付いたのは廊下の水拭きを終えたその時だった。


「ん、あれ?」


 感じる違和感。体が揺れているような。いや、停泊中だって船は揺れる。けれどそれとは違う揺れ方で、なによりわたしはこの揺れを知っていた。


「なんで、いつから」


 思わずそんな声が出た。だってこれは、船が、動いている。心臓がどくんと跳ねた。

 思わず泣きそうになったけれど、これは泣いてる場合じゃない。とにかく甲板へ出てみなければ、とわたしは自分を奮い立たせて掃除道具もそのままに甲板へ走った。

 けれど甲板で見たのは絶望的な光景だった。



「うそ」



 港が遠い。わたしが絶望している間にもどんどんと遠くなっていく。絶望の次に襲ってきたのは恐怖だった。どうしよう、こわい。なにがこわい?それはたぶん。

 あまりの恐怖に、わたしは背後から忍び寄る影には気が付かなかった。






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