第8話 束の間の祝宴。自転車と焼肉そして忍び寄る「本当の地獄」
自己破産の手続きが本格的に始まり、住宅ローンと借金の返済が完全にストップした。
本来なら、ここから裁判所との面倒なやり取りで頭を抱えると思っていた。
だが、現実は違った。
代理人である弁護士がすべての窓口となり、矢面に立ってくれている。
俺たちがやるべきことは、ただ一つ。
この家賃ゼロの「ボーナスタイム」を利用して、次の生活に向けた現金を貯めることだった。
手放したヴォクシーの代わりに、俺たちは家族全員で近所の大型サイクルショップへと足を運んだ。
「パパ、これ! 絶対これがいい!」
息子が真っ赤なマウンテンバイクを指差して目を輝かせる。
娘も水色の可愛らしい自転車のサドルを撫でていた。
「よし、それにしよう。由美も、買い物用にカゴがデカいやつ選んでくれ。俺は……この一番安いママチャリで十分だ!」
俺がそう言うと、家族みんながドッと笑った。
クレジットカードはもうブラックだ。
ハサミを入れて捨てた。
だが、俺の財布には、毎月の支払いがなくなって手元に残った「現金」がしっかりと入っていた。
ローンという見えない鎖に縛られず、自分たちの身の丈に合った現金の重みを感じながら、4台の自転車の代金をレジで支払う。
その帰り道。真新しい自転車を押しながら、俺は由美に言った。
「よし! 今日は車とお別れした記念と、新しい愛車たちの歓迎会だ! 焼肉、食いに行くぞ!」
「えっ!? 焼肉なんて……いいの?」
由美が目を丸くする。
子供たちは「やったー!!」と飛び跳ねた。
近所のチェーン店の焼肉屋。
網の上で肉が焼ける香ばしい匂いと、ジュージューという音。テーブルには、子供たちの笑顔が溢れていた。
ふと、スマホに目をやる。
以前なら、食事中だろうと容赦なく鳴り響いていた督促の着信。それが今は、信じられないほど静かだ。
「……美味いね」
由美が、焼けた肉を口に運びながらポツリと呟いた。
その目には、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
「ああ。めちゃくちゃ美味いな」
俺も大きく頷いた。
高級な黒毛和牛なんかじゃない。
普通のカルビだ。
でも、借金取りに怯えながら暗い顔で食べる飯とは次元が違う。
スマホの着信音にビクビクすることなく、家族で食卓を囲んで笑い合える。
たったそれだけの「当たり前の日常」が、涙が出るほど美味かった。
だが――。
網の上で弾ける肉の脂を見つめながら、俺の腹の底には、黒くて冷たい塊がずっと張り付いていた。
(これは、幻だ……)
今、俺たちは笑っている。
督促が来ない静けさと、手元の現金を喜んでいる。
しかし、俺たちが住んでいるあのマンションは、いずれ「任意売却」で手放さなければならない。
『少額管財事件』になるみたいだから、手続きに時間はかかるが、やがて不動産屋が介入し、赤の他人が俺たちの「城」を値踏みしにやってくる日は確実に訪れる。
この平穏は、自己破産という巨大な嵐の目の中にいるだけの、束の間の喜びに過ぎない。
本当の地獄は、これからなのだ。
俺は由美や子供たちにその恐怖を悟られないよう、無理に笑顔を作りながら、ただ黙ってカルビを噛み締めた。
続く




