第2話 最後の一杯と空気の読めない着信
蕨駅の改札を抜けた時、健太の足元は、まるでもろい地盤を歩いているようにふわふわとしていた。
財布にあるのは三千七百二十円。
これで今月を生き延びるのは不可能だ。
家に帰って、泣きはらした顔の結衣に「給料が振り込まれる銀行の口座を差し押さえられた」なんて、死んでも言えない。
健太は、無意識にガード下へと向かっていた。
薄汚れた看板に「立ち飲み・源さん」と書かれた、一杯三百円の店だ。
かつては、仕事の愚痴をツレと笑い飛ばした場所。
だが今の健太には、ここが人生の終着駅に見えた。
「……レモンサワー、一つ」
震える声で注文し、カウンターに小銭を置く。残金は三千四百二十円。
これが、四十三年間の人生の、最後の授業料だ。
氷の溶けかかった薄いサワーを見つめながら、健太は思う。
(ここで踏ん切れば、生命保険で家族は救われる。俺という『欠陥品』が消えれば、あいつらはやり直せるはずだ)
死の影が、グラスの底から這い上がってきたその時だった。
――ガガガガガガッ!!
静寂をぶち壊すような爆音が、健太のズボンのポケットで鳴り響いた。
マナーモードにし忘れていたスマホの着信音だ。
画面を見ると、『柴田 竜也』の名前が躍っている。
「……っ、よりによって今かよ……」
健太は一度無視しようとしたが、竜也のしつこさは昔からだ。二度、三度。
店内に響き渡る着信音に、周りの客が怪訝そうな顔でこちらを見る。
健太は逃げるように店を出て、震える指で通話ボタンを押した。
『おう! 健太か! お前、今どこだ!』
鼓膜を突き破らんばかりの、脳天気でデカい声。
「立ち飲み・源さんだ!……竜也か。悪い、今はちょっと……」
『何が悪いだ! 聞けよ、今日の競馬、大穴当てたんだよ! 地方競馬で万馬券だ! 今から蕨のいつもの店で奢ってやるから、すぐ来いよ!』
「……無理だ。行けねえよ」
『あ? 何言ってんだ、お前。声、死んでんぞ。どうした?』
竜也のトーンが、わずかに変わった。
健太は、もう嘘をつく気力も残っていなかった。溢れ出したのは、ドロドロとした絶望だった。
「もう……終わりなんだよ。銀行口座を差し押さえられた。全部消えたんだ。給料も、俺の人生も……。もう、死ぬしかねえんだよ、竜也……」
電話の向こうが、一瞬、静まり返った。
そして数秒後。
『――そこ、動くんじゃねえぞ。一歩でも動いたら、ぶっ殺してやるからな!』
ガチャリ、と通話が切れた。
十分後。蕨の冷たい夜風を切り裂いて、一人の男が立ち飲み屋の前に滑り込んできた。
作業着のまま、肩で息を切らしている柴田竜也だ。
竜也は、店の隅で丸まっていた健太を見つけるなり、そのスーツの襟首を、無理やり、力任せに掴み上げた。
「お前、何死にそうな顔してんだよ……バカ野郎!!」
竜也の怒声が、静まり返った店内に響き渡った。
続く




