第1話 手書きの家計簿と無言の死刑宣告
そのノートは、生活の「血」が滴る記録だった。
高橋健太、四十三歳。年収五百万円。
どこにでもいる中堅商社のサラリーマン。
真面目だけが取り柄で、ギャンブルと言えばたまの競馬、楽しみと言えば仕事帰りの蕨のガード下にある赤提灯。
そんな「普通」の幸せが、物価高という目に見えない魔物に食い荒らされたのは、一年前からだった。
上がる電気代、倍になった卵の価格、引かれる一方の社会保険料。
足りない生活費を埋めるため、最初は数万円のキャッシングのつもりだった。
だが、一度手を出すと、それは麻薬のように膨れ上がる。
夜十時。子供たちが寝静まったリビングで、妻の結衣がそのノートをテーブルに叩きつけた。
健太が誰にも内緒でつけていた、手書きの家計簿。
エクセルで管理する器用さも、弁護士に相談する勇気もなかった男の、最後のみっともない「見栄」の残骸だ。
「……何よ、これ。健太、この『返済』って文字、何なの?」
結衣の声が震えている。ページには、汚い字でびっしりと書かれた借入先と利息の計算。
「ごめん、結衣。生活費が、どうしても足りなくて。すぐ返せると思って……」
「バカじゃないの!? なんで相談してくれなかったのよ!」
結衣が泣き崩れる。
一家の主としてのプライドを守るためについた嘘が、一番守りたかった家族を地獄へ突き落とした。
結衣の嗚咽が、健太の心臓を直接握りつぶすように痛かった。
だが、本当の地獄は、翌朝に待っていた。
一睡もできず、重い体を引きずって向かった蕨駅のホーム。
今日は給料日だ。
差し引かれたとはいえ、手取り二十数万円が振り込まれているはず。
それで今月の支払いを綱渡りで凌ぐ。健太は震える手でスマホを操作し、ネットバンキングの画面を開いた。
――そこには、目を疑う文字が並んでいた。
「……え?」
口座凍結
振り込まれたはずの給料が、一円も動かすことすら出来ない。
履歴には無機質な文字。
【差押え】
心臓が止まるかと思った。
借金の返済を優先し、半年間放置していた住民税と健康保険料。
役所はヤミ金のように怒鳴り散らしてはこない。
ただ無言で、合法的に、生きていくための血脈を根こそぎ奪い去ったのだ。
「終わった……」
ホームに入ってきた京浜東北線の風が、健太の頬を冷たく叩く。
財布の中には、小銭を合わせて三千七百二十円。
これが、四十三歳の男が持つ全財産。そして、人生の「終わりの合図」だった。
続く




