第12話 引っ越し当日の空っぽの部屋と手に入れた身軽な自由
俺は誰もいなくなった部屋の真ん中にポツンと立っていた。
家族4人で長年暮らしてきた持ち家のマンション。
荷物がすべて運び出されたその空間は、おどろくほど広く、そして冷たく感じた。自分の声がむなしく響く。
「パパ、行くよ」
子供の声にうなずきながら、俺は壁の隅を見つめた。
そこには、子供たちの背のびを記録した柱の傷が残っている。
俺の失敗のせいで、この思い出の詰まった城を手放すことになってしまった。
申し訳なさと、どうしようもない情けなさで、胸がギュッと締め付けられるようだった。
自分のふがいなさを噛み締めながら、俺はそっと玄関の鍵を閉めた。
新しい住まいは、古い2DKの部屋だ。
家族4人で荷物を運び込むと、足の踏み場もないくらい狭く感じた。
壁も少し黄ばんでいて、前の家と比べたらどうしても見劣りする。
だが、日が暮れて薄暗い電球の下で家族と向かい合った時、俺はこの部屋にある「圧倒的な静けさ」に気がついた。
電話が鳴らない。家の外に誰かが立つ気配もない。
弁護士に頼んで破産の手続きを始めた日から、毎日のように俺を追い詰めていた借金の督促が、ピタリと止まったのだ。
「金を返せ」という冷たい声に怯えなくていい。郵便受けを開けて、赤い文字の督促状に心臓を縮み上がらせることもない。
その日の夜、近所のスーパーで買ってきた安いおかずを、家族4人でつついた。
決して豪華な飯じゃない。
でも、自分が汗水流して稼いだ金が、借金の支払いに消えることなく、こうしてちゃんと家族の胃袋におさまっている。
妻も子供たちも、狭い部屋で身を寄せ合いながら、不思議と前よりもよく笑っている気がした。
ふと、部屋の隅に積まれたままの荷物を見て、俺はあることに気がついた。
「そうか……俺たちは、自由になったんだな」
何千万という住宅ローンを組んでマンションを買った時、俺は「これで一生安泰だ」と信じて疑わなかった。
自分の城を持てた誇りでいっぱいだった。
だが、それは同時に「見えない鎖」に繋がれたのと同じだったんだ。
何があっても、35年間そこから逃げられない。
もし隣の人と揉めても、子供が大きくなって部屋が狭くなっても、ただじっと耐えて払い続けるしかない。
家という重たい鎧を着せられて、完全に身動きが取れなくなっていたんだ。
でも、今は違う。
この賃貸の部屋なら、もし子供たちが成長して「やっぱり狭いな」と思えば、もっと広い所に引っ越せばいい。
気分を変えて別の街へ移ることだってできる。
持ち家という縛りがないだけで、人間はこんなにも身軽になれるんだ。
俺は家を失ったんじゃない。
重たい鎖を引きちぎって、いつでも好きな場所へ飛んでいける自由を手に入れたんだ。
破産して、持ち家を手放す。
世間から見れば転落かもしれない。
でも、借金という地獄から抜け出したこの場所の空気は、思いのほか澄んでいて、温かい。
死ぬくらいなら、全部手放してしまえ。
手放した後に待っているのは、絶望なんかじゃない。
安心して眠れる夜と、身軽な自由だ。
続く




