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視界に飛び込んできた蝶が、自分の胸元へ、吸い込まれるように消えた気がした。
「…………?」
胸元に手を当て、呆然としたアルマに、三つ年下の弟が首を傾げる。
「どうかしたの、姉様?」
「……何でもないわ」
何かがぶつかった感触も、物体もない。
「じゃあ、そろそろ会場に戻ろう。あまり身体を冷やすと、風邪を引くよ」
その言葉に、アルマは苦笑した。
そういえば、熱気の籠もった夜会の会場から出て、涼みに来ていたのだった。
けれど、なにを偉そうに。身体を冷やしてはいけないのは、弟のほうだ。
「もう。貴方じゃないんだから、ちょっと外にいたくらいでそんなことにはならないわよ」
しかし弟は、怪訝そうな表情を浮かべた。
「俺は、身体が丈夫なのが取り柄なんだけど?」
「……あれ……?」
アルマは、いかにも健康な顔色の弟を見つめた。
「……でも、貴方、昔は身体が弱くて、いつも死にそうなくらい瀕死で寝込むベッドの住人じゃ……なかったわね」
いや全然、何事もなく元気だった。むしろ幼い頃からやんちゃの化身だった弟の武勇伝の数々は、今でも思い出すだけでアルマの額の血管が危うくなる。
それでも、のびのびと育っていく弟を見守るのは、なんだかんだ姉気質なアルマの幸せでもあった。
もっとも、ことあるごとに褒めてほしいと近寄ってくる弟の旋毛を見たのも、遊び疲れてそこら中で安らかな寝顔を晒す弟に毛布を掛けたのも、ずいぶんと昔の話だが。
「俺がそんなだったら、母上に騎士学校に行く許可を貰えなかったと思うけどな」
苦笑する弟は、少し見ないうちに、また背が伸びて体格が良くなっている。
昔の母は、とても健康なアルマや弟を、まるで見失った夢でも見たかのように、大事に手元に置いて離したがらなかった。
それでもずいぶんと活きの良い弟を見ているうちに、ちゃんと子離れの決意を固めてくれたらしく、弟は次の始業式で騎士学校の二年生になるのだ。
今日の夜会も、その騎士学校主催の懇親会であり、両親も旧友と言葉を交わしつつ、仲良く楽しんでいるようだった。
「そうね。お母様も、この歳までお元気で……」
そこまで口にして、はたとアルマは弟を見上げた。
弟の顔は、やはりアルマがハイヒールを履いていてもまだしっかりと高い位置にある。
胸ポケットには、母が最終確認をして「貴方だってお父様似なんだから、身だしなみを整えて一瞬だけ大人しく黙っていたら、可愛い女の子も騙せるわよ!」とお洒落に折り直していたポケットチーフが差し込まれている。
かつては騙された可愛い女の子だったらしい母は、アルマが知る限り、いつも元気いっぱいであった。
なのに、なんだか一瞬、母はずっと幼い頃にいなくなってしまっていたような、悲しいほど懐かしい気分になったのだ。
(……さっきの、蝶のせい……かしら?)
蝶は、死者の魂を運ぶのだそうだ。あのぶつかった蝶は、いったいどこに行ったのだろう。
(まさか、私に、別の誰かの記憶を植え付けた、とか……? それとも……)
「姉様、どうかしたの? 体調が悪いとか?」
「ううん、そんなことはないわ。ただ……」
「……今は幸せだな、と思っただけよ」
騎士学校に入ってから、両親のことは気取って父上母上と呼び方を変えたのに、アルマのことは以前と変わらず姉様と呼んでくれる可愛い弟は、健康で。母も元気で。父もきちんと能力に見合った報酬を受け取れる職に就いていて、周囲に頼られて忙しいけれど、アルマたちと過ごしてくれる時間も少なくない。
「……借金も、無いし」
そんなの当たり前のことなのに、なんだかそれが無性に嬉しいことのような気がして、アルマは頬を緩めた。
しかし弟は、これ見よがしに腕を組んだ。
「……でも姉様、嫁ぎ先もまだ決まってないよ」
「えっ」
アルマは思わずぽかんと弟を見上げた。決まってなかった——そうだ、決まってない。
「そろそろ本腰入れたほうが良いと思うよ? 俺は姉様が出ていかなくてもまったく構わないんだけど、もしいずれは結婚するつもりなら、限られたパイの取り合いなんだから、確保だけはしておこう?」
まあ、少し見ない間に姉に向かって正論を言う子になってしまったのね……と、アルマは寂しくなりつつも、ふと妙案を思いついた。
「そうね……この際、この扉から真っ直ぐ歩いて最初に立ち塞がった人にお相手がいなかったら、誘ってみようかな」
「雑だよ、姉様」
弟が眉を顰める。姉に向かってなんという顔だ。アルマは弟に向かって笑いながら、適当に歩き出した。
「だって、この歳まで男性を好きになったことがないんだもの、仕方ないじゃな——?」
突然、前方に人影が立ち塞がった。
「すみません」
慌てて足を止めて、よそ見を止めたアルマに、背の高い青年が申し訳なさそうに礼をする。
「失礼しました。レディ」
「……何しているんですか、先輩」
弟が、青年に向かって呆れた声を出した。
しかしそのまま呆然とする姉に気づき、困惑した様子になる。
「……あれ? ……姉様?」
けれど、アルマは、それどころではなかった。
「……リーヴ、なの?」
絞り出した声に、青年が目を見開いた。
「……まさか、ファラ……?」
「……あのあと数年で滅んだのよね、あの国」
よりによって先輩と、などと拗ねる可愛い弟を置いて、アルマは青年と庭園に出た。
「うん。当時はそれどころじゃなかったけれど、後世から見れば当然だったのかもね」
青年——リーヴの記憶を持っているとわかる彼は、顔立ちも違うのに、相変わらず困ったように笑った。
アルマはゆっくりと歩きながら呟いた。
「貴族の力を勢いよく削いで、平民の力を底上げする途中で王家と聖女の独裁政治になって、結局革命が起きて……転換を急ぎすぎたのよね」
歴史の中の愚かな一国にすぎないと、後世の評価が下されたあとのかつての祖国の空気を、ぼんやりと思い出す。
貴族の価値を下げながら、王家と聖女の血の神聖さだけは誇るというのは、貴族からしても平民からしても、面白くない話だろう。
「そうなるね」
「公爵家の一族を急に丸ごと消したことで、その隙を隣国に付け込まれて、国民が独裁政治に反感を持つよう煽られまくったみたいだし」
「やっぱりまだ怒ってる?」
アルマは立ち止まって青年を見上げた。リーヴだった頃よりも、背が高いしがっしりとしていた。
「……まあ、私たちには関係ない話ね。それと私、ファラのことも、今さっきあなたに逢う直前に思い出したばかりよ」
「そうだったんだ。俺はけっこう昔に思い出したよ」
「そうなの?」
なぜだろう、と首を傾げたアルマに、青年はまた困り顔で微笑んだ。
「うん。……ただ、君がファラの記憶を思い出しているのなら、一つだけどうしても確認したかったんだけど」
「なに?」
「まさかとは思うけど、あのお守りとして渡したネックレス、飲み込んだりした?」
「……した、けど……」
よくわかったわね? と、言う前に、青年はものすごく渋い顔をした。
「……魔力中毒」
「え?」
「君の……いや、ファラの死因だよ」
「……あっ……」
まさか。
——ファラが体内に入れた魔法石は、リーヴの加護が掛かっていた。
肌に触れる程度で十分な効果を発揮するそれを、ファラは、わざわざ内臓で抱え込んだのだ。
つまり、他人の魔法を食べたのである。
もしくは劇薬の一気飲みか。回復薬だって規定量以上は飲んではいけないものなのに。
今さら冷静に考えてみたら、死ぬに決まっていた。
「まあ、説明しなかった俺が悪かったのかな……飲むとは思ってなかったからね……」
なんだか、ファラが乳幼児並みの誤飲レベルだと思われている気がするが、その通りである。
「……わ、私だって、普通なら飲み込んだりしないよ。ただ、あれだけは誰にも渡さずにいたかったから……」
アルマは思わずファラのつもりで言い訳をした。すると青年は、リーヴの頃には見たことのない、幸せそうな顔で笑った。
「あはは……そっか。じゃあ、もういいや。本当は、もっと怒りたいこと、たくさんあったんだけど。リーヴならそれで大満足しただろうし」
そう言って、青年はそっとアルマに掌を差し出した。
「でも君は、今回は、勝手に死なないでくれる?」
「……あのあと。リーヴも、死んだの?」
「うん。普通に打首で。斧で落とされた」
庭園の奥にあるベンチを案内されて、アルマは青年と並んで腰を掛けた。
「……そう、なんだ」
アルマは俯いたのに、青年は軽い調子で言い放つ。
「俺のときは、たぶん処刑人もけっこう慣れてきていてね。人前で長く苦しまずに済んだよ」
「そんなところまで覚えていたの?」
「経緯はね。痛みはもうほとんど覚えてないよ」
「そう……」
アルマは、そっとリーヴだった青年の首に手を伸ばした。嫌がられる様子はなかったので、控えめに撫でておく。
「それはもう全部忘れてもいいと思うわ。私、落ちたときの痛みとか、まったく覚えてないわよ。夢見心地だったし」
「……そうだね。うん。今ので忘れたかも」
良かったね、と苦笑されたので、アルマも肩を竦めて手を離した。
「物心ついたときから、なんとなくあの国の顛末が気になって、いろいろ調べてはいたのよね。いま思うと、こういうことだったのね」
「少しは溜飲が下がったりした?」
「全然。私はファラ自身ではないもの」
アルマは天を仰いだ。綺麗な星空だった。ファラが最期に見惚れたあの青空の美しさを、今後アルマが感じることはないだろう。
ファラは確かにリーヴが好きだった。
けれどファラは死んだし、リーヴも死んだ。
彼らは、救われたりしなかった。
ファラと弟にしてもそうだ。
いくらアルマの弟がムカつくくらいに生き生きしていても、病床で苦しんで死んだあの子自身が救われたわけではない。
なにせ今の弟は、可愛い令嬢に舞い上がっている年相応の思春期を満喫しているだけで、つらい境遇の中で苦しんだりしていないのだから。
「……あ、あれ? 弟が熱中してる子……私と同い年の、お嬢様気質で、記憶力がかなり良いって……」
いや、気のせいだろう。せっかくアルマとも仲良くなれそうだったのに、その先には気づく必要はない。
……前世は、もう関係ないのだから。たぶん、一応そこまでは。
「ちなみに俺は、少なくともあのときの王太子と聖女様は現世で見かけてないよ」
「それは良かったわ……」
なぜ青年が今それを言ったのかも、アルマは聞かないことにした。
庭園から会場まで戻っても、青年はアルマの手をさっさと離そうとはしなかった。
代わりに、少しばかり生真面目に、でも明らかに笑いたそうな顔でアルマを見た。
「今生では、僕と踊っていただけますか?」
「ええ。もちろん。私はアルマよ」
「俺はバルド」
「そう、バルド。今生は私が死なないように、貴方がちゃんと見張っていてね」
そう告げると、バルドは照れたように笑って、頷いてくれた。
「うん。そうするよ。もう神には誓わないけれど」
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