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王国に伝わる聖女の条件と、実際に聖霊神に選ばれた者の正体には、大きな隔たりがある。
それを、リーヴは幼い頃からよく知っていた。
まず前提として、この国の聖霊神が時代ごとに選んでいる者は、別に聖霊神から特別な加護は与えられていない。
ただ聖霊神が初代国王に貸し与えたこの土地が、良く繁栄していることを示すための試験紙として、適当に選ばれた存在である。
聖力が飛び抜けて多いことが目印であり、その膨大な聖力を使えば生活が便利になることは間違いなく、王家にとっては何らかの手段で保護したほうが都合の良い存在であることは確かだろう。
だが、別に選ばれる者が、必ずしも貴族の乙女とは限らない。
なにしろ聖霊神は、人間よりも遥かに上位の存在だ。
貴族も平民も等しく、人間でしかない。
だから聖霊神に選ばれる者は、実のところ、男女問わず、貴賤も問わないのである。
従って、王家に連なる歴代聖女は、アリスのように飛び抜けて聖力が高いわけではないが一応貴族令嬢のなかで国一番という者が多かったが、それは実際、まったくもって聖霊神が選んだ者ではなかった。
貴族令嬢が聖女として扱われているあいだ、本当に聖霊神に選ばれた者は、平民として市井に、あるいは貴族の男として、王家に向かって異を唱えるような面倒事を避けて、名乗りを上げることもなく、せっかく多く与えられた聖力ごと隠していたのだろう。
今代のリーヴのように。
リーヴが自分が選ばれていることに気づいたのは、物心ついてすぐのことだった。
とはいえ特別な何かが視えたわけでも、聞こえたわけでもない。
ただ、この国で知っておくべき知識として、あるいはリーヴ自身の人生の知恵として、不特定多数の人間を見て察した道徳と同じように、自然とそのことを理解していた。
リーヴがこの国の試験紙として聖霊神に求められる人生。
それは、リーヴ自身が、人の手によって殺されないことである。
おそらく聖霊神が想定している内容としては、戦争などの争いに巻き込まれない。困窮や教育不足などによって罪人に身を堕とさない。生活に苦しんで自殺をしない。といったところだろう。
不慮の事故に遭う可能性だって、文化の成熟や社会の成長につれて、危険は少なくなっていくはずだ。
その他には、リーヴ自身が自覚する性格からして、ある程度慎重であり、無益な争いには興味がなく、明らかな馬鹿でも賢くもなく、偏った自己愛もないという、少々面白みがない、平均の寄せ集めのような人間が無難だと想定されている気がした。
つまり一応は、自分からは死ににくい者を選んだか、もしくはそんなやや冷めた人間として育つように作られている。
その点は配慮されているな、という感想を持っていた。
そんなリーヴだが、もちろん両親や兄たちなどの身近な人々のことはそれなりに敬愛していたし、自己以外に興味を一切抱かないというわけではなかった。
特に十二歳の頃、身分に天地の差があるが同い年の従姪だというマリーツィアの、その取り巻きであるファラを聖堂で見かけて、自分よりもずっと冷めた瞳に興味を抱いた。
というか、後から自覚したが、一目惚れしていた。
ある意味リーヴ史上最大の不覚である。
ファラは、客観的に見れば飛び抜けて可愛かったわけではなかったはずで、まして軽くすれ違っただけのリーヴに優しかったわけでもなかったし、微笑んでさえもくれていなかった。
ただ、ファラの少女だてらにあまりにも世間を俯瞰していそうな態度が、同族として嬉しいような、それでいて、むず痒いほどにもったいないような気がしたのだ。
だからリーヴは、彼としては珍しく、ファラと再び会えるように日程を調整して、緊張しながら話し掛けた。
そうして交流を持つようになり、ファラの実家の困窮や病気の弟のことを知り、ついでにリーヴの初恋は実らないこともわかった。
それでもファラの身分自体が、リーヴの手が届かないほど高くなるわけでもない。
いっそファラが明らかな幸せを手にするのであれば諦めもついたのに、お金のためにずっと歳上の伯爵の二番目の後妻に入るという、夢も希望もない人生設計を語るファラに、リーヴは内心で、それならば二十年か三十年ほどしてファラの身が自由になるのを待とうと、野心のないことを決めた。
困窮や気苦労であまり元気ではなさげなファラから離れて彼女を横から拐えるだけの一攫千金を狙って夢に果てるのではなく、あくまで『友人』としてずっと側に居座ろうと思ったのである。
無論、本当の単なる友人でいるつもりはなかったが。
幸いにして、リーヴのなけなしの会話の引き出しは、ファラの好みと一致していた。
そして、ファラにそういう意味でネックレスを受け取ってもらえたときには、柄にもなくはしゃいだ。
だが一つだけ、リーヴとファラは、意見が致命的に合わない部分があった。
聖霊神信仰についてである。
冷めた現実主義者のファラは、同じく冷めているはずのリーヴが、聖霊神の存在だけは深く信じていることを、どうしても理解し難いようだった。
そして二、三度だけ対話して、リーヴを無神論者に引き入れることが無理だとわかると、以降は一切その手の話を振ってこなくなった。
リーヴとしては、ファラの身の安全のためにも聖霊神のことは信じておいてほしかったが、あまり言い募ってファラに嫌われては困るので、やはりそれ以上は話さなかった。
そして、それとなく友人以上の感情があることを示しつつも、無責任に攫いにはいけないままに、怠惰な秘密を積み上げて、何年かを過ごして。
マリーツィアが偽聖女だと判明した。
リーヴはもちろん最初からそれを知っていた。
ファラは、単に後ろめたいのかリーヴを巻き込まないためか、それとなく隠しているようだったが、そもそも今代で聖霊神に選ばれているのはリーヴである。それ以外はすべて偽物だとわかってしまっていた。
だからこそ、リーヴは絶対に名乗り出るつもりはなかった。
だが、また別の偽物を持ち出して、ファラが咎を負うのであれば、話は別だ。
あの日、マリーツィアの審判の場に、関係者として引き立てられたリーヴは、どうせ死ぬのならば駄目元で「自分こそが聖霊神に選定された者だ」と名乗り出て、そもそも今までも本物の聖女が選ばれていなかったことを訴えるつもりだった。
ファラの命が掛かっているし、そもそも、そうしないと国ごと滅んでしまうからだ。
王家には思い入れもないが、リーヴの人生の狭い行動範囲の中で出会った人に、わざわざ死んだり路頭に迷ったりしてほしくもない。
そして——リーヴが目にしたのは、マリーツィアの代わりに塔から飛び降りる、ファラの姿だった。
遠目に見れば華奢な令嬢に過ぎないファラは、白い簡素なワンピース姿で、死を前にして怯えることもなく、穏やかに顔を上げていた。
リーヴは反射的に手を伸ばそうとした。ファラが、塔の窓から空に出る。その身体は、一瞬、ふわりと浮かび上がった、ような気がした。
けれど。
リーヴは、その直後、確かに自分の心臓が潰れる音を聞いた。
(……ああ、やっとわかった)
手を伸ばし損ねたまま、リーヴはファラの消えたその場所を見つめた。
(……ファラは、ただ神様を信じていなかったんじゃない。弟を見殺しにする神様を、信じたくなかったんだ)
ファラは、弟の病が治ることを願っていた。神に見切りをつけても神以外のものに祈っていた。
きっと神に祈っていた頃に弟が治っていたら、ファラは敬虔な信徒になっていただろう。
そういう、普通の、どこにでもいる優しい女の子だった。
なのに。
空は、雲一つない快晴だった。
ファラは死んだのに。
ゆっくりと、リーヴは伸ばしたかった手を強く握り締めた。手枷を嵌められた腕は、今さら何も掴むことはできなかった。
それでも、リーヴはもう悲しむことさえできなかった。
(……確かに、ファラを見殺しにする神なんて、俺にも必要ない。この国も、王家も、下らない偽聖女も、もう全部いらない)
ふいに、ファラが落下した尖塔に翻っていた旗が、強い風に吹き付けられて、真っ直ぐだった支柱を曲げた。
一拍置いて、パキリと音がした。折れた王国の旗が、一瞬だけ風にたわみ、砕けた支柱の重みに引かれて落下する。
そして広がった旗は、奇しくもファラの落下地点に覆い被さった。
惨く散った亡骸を隠すように、白い布が優しく舞い落ちる。
そして。
——じわり、と。
旗に描かれた白と金の紋章が、ゆっくりと赤く濡れて消されていくのを、その場の誰もが見ていた。
その後、リーヴは断頭台に上げられて、首を落とされるのを待ちながら、周囲の人々の声を聞いて、薄く笑った。
「なあ……やっぱり、あのファラって娘が本当の聖女だったんじゃないのか?」
「……だったら、この国は、もう——」
——
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