金継ぎ
コールドンのカップを囲む俺たちの間に、静かな沈黙が落ちた。
ソーサーには直径一センチほどの半月型の欠け。その横には、ぽつんと小さな破片が転がっている。
俺は恐る恐る口を開いた。
「さっきみたいに、修復できないんですか?」
「樹脂だとくっつくけど、食器として使うのはおすすめできないんだよね」とミーキンさん。
「残念だけど……しょうがないか」とリッジウェイさんも肩を落とす。
「……あの! 金継ぎなら、イケるかもしれないです!」
「金継ぎ? って、あの修復部分を金色にする日本独自の手法?」ミーキンさんが目を丸くする。
「はい。近くの区民センターで、気軽に体験できるんです。たしか夜までやってるはずです」
「やってみたいけど、今夜はお客さんと飲む約束があるからなー」
「そうですか……」
「俺が石野くんと一緒に行こうかな」
「うん、じゃあ頼む。後で様子教えて」
「ああ、わかった」
*
閉店後、俺とリッジウェイさんは区民センターへと向かった。
こんなふうに二人で夜道を歩くのは初めてで、少し緊張する。会社帰りの人波を縫い、ネオンが輝く繁華街を通り抜けていく。ミーキンさんはこんな大人な街でお酒を飲んでいるんだろうか。改めて「オトナ」だなと思う。
ふと疑問に思っていたことが口をついて出た。
「あの、リッジウェイさんとミーキンさんって、なんでお互いを名前で呼ばないんですか?」
「えっと、そうだね。学校からの付き合いだからかな。みんな苗字で呼び合ってたし、その名残りだと思う」
「そうなんですね」
「石野君は、みんなからなんて呼ばれてるの?」
「家だと湊です。学校でも、仲が良い友達は湊って呼びますけど」
言いながら、昨日のことを思い出した。
家族や友達から名前で呼ばれるのは平気なのに、どうしてリッジウェイさんに名前で呼ばれただけで、あんなにくすぐったい気持ちになったんだろう。
「そっか。……じゃあ俺も、湊くんって呼んだほうがいい?」
「ええ!? いえ、今のままでいいです!!」
食い気味に返してしまい、リッジウェイさんが驚いたようにパチクリと目を丸くした。
急に変えられるなんて、心の準備が追いつかない!
……でも待てよ。これじゃあまるで、俺が名前で呼んでほしいって催促したみたいに受け取られなかったか? いや、それならなおさら、せっかく気を遣って提案してくれたのに断ってしまうなんて失礼だったんじゃないか――?
「ふふ、そっか。じゃあ、石野君のままで」
優しく笑うリッジウェイさんに、俺は「はい……」と小さく頷くのが精一杯だった。
一人で勝手に焦って頭をぐるぐるさせているうちに、区民センターへと到着した。
多目的室のドアには『金継ぎ教室』と書かれた札がかかっていた。
リッジウェイさんと俺は、例のカップとソーサーを持って部屋に入る。見回すと、子どもからお年寄りまで幅広い年齢の人々が、黙々と目の前の器に向き合っていた。和食器、洋食器、花瓶――それぞれの「割れた物語」を抱えて。
「こんなに……みんな、素人だろう?」
「はい。趣味と実用を兼ねて、って感じです。俺も以前、割れた湯呑みを持って母と来たことがあって。今でも普通に使えてますよ」
「え! それはすごいね」
少し誇らしくなって、俺は言葉を続けた。
「金継ぎって、修復の模様によっては『景色』として評価されて、元の価値より高くなることもあるそうなんです」
「へえ、面白いね。日本人特有の感性かな」
「あー……そうかもしれないですね」
案内された席に着くと、筆と液体の入った小皿が配られた。
木の香りに似た、けれどもっと重く粘りのある独特の匂いが立ち上る。リッジウェイさんが興味津々で覗き込んできた。
「この接着剤、何でできてるの?」
「漆です。あ、でもここのは一般向けにかぶれにくい成分を混ぜてあるって言ってました」
「漆?! 黒塗りの高級な家具や箱に使われてる?」
「……家具?」
一瞬フリーズした。スケールが大きいな、と思いつつ頷く。
「はい。ツヤツヤのお椀とか重箱の表面も漆ですけど、実は強力な接着剤にもなるんです」
ソーサーと破片の断面を紙ヤスリで軽く磨いてから、筆で漆を塗り、断面同士をそっと合わせた。
「これでしばらく置きます」
「上手いね。作業が丁寧だし、手先が器用だ」
「そうですか?」
直球で褒められて、つい照れ笑いが漏れる。
「うん。絵付けの仕事、向いてるかも」
「え? まさかー……」
否定してみせても、リッジウェイさんの柔らかな表情は崩れない。さっきの会話のあとにそんな風に褒められたら、これからの作業、めちゃくちゃ意識してしまうじゃないか。
接着剤が少し乾くと、次に金泥が入った小皿が配られた。
「繋ぎ目の線を、金でなぞっていきます」
筆先に金泥を含ませ、緊張で震えそうになる指先をぐっと抑え込む。
スッと――息を止めて、細い一筋の金線を引いた。
金継ぎ、完成。思わず小さく息が漏れた。
「これが金継ぎか……」
リッジウェイさんは感心したようにしばらく眺めていたが、ふと筆を手にとった。
「俺、ちょっと手を加えていい?」
「え? はい、どうぞ……」
――これ以上、何をするんだろう?
リッジウェイさんは、俺が引いた金の線の上をなぞるように、迷いのない手つきで筆を走らせていく。
あっという間に――可憐な花の模様が浮かび上がった。
細い金継ぎの線がそのまま花綱になり、カップ全体の洋風なデザインに見事に溶け込んでいく。
「うわ……っ!!」
「どうせお化粧するなら、可愛くしてあげようと思ってね」
リッジウェイさんが振り返り、にこっと笑う。
「君が言ってた『景色』――になったかな?」
「……スゲー……」
それ以上、言葉が出てこない。俺はしばらくの間、ソーサーから目を離すことができなかった。
「これはもう……唯一無二の作品です」
「君にあげるよ。そのカップとソーサー。良かったら使って」
「えっ!! 良いんですか?!」
――なんでだろう。今までもらったどんなプレゼントよりも、一番嬉しい。
「ありがとうございます! 大切にします!」
はしゃぐ俺を見て、リッジウェイさんはふと、何かを思い出したような遠い目をした。何を考えていたのかは分からなかったけれど、その表情はとても優しかった。
金継ぎの新しい模様が、部屋の明かりを受けてきらりと輝く。
元には戻れなくても、もっと素敵になれるんだ。




