修復
「おはようございます!」
昼前、制服のまま開店前のティールームの扉をくぐった。ドアベルの澄んだ音に一拍遅れて、焼きたてのスコーンがふわりと鼻をくすぐる。
キッチンで仕込み作業をしていたリッジウェイさんが、目を丸くしてこちらを見た。
「石野君? こんな早い時間にどうしたの?」
「あ、期末テスト期間で午前中で終わったんです。明日は英語だけですし」
「へえ、英語得意なの?」
「あ……まあ。小さい頃から英語教室に通っていたので。帰国子女の人たちには全然敵わないですけど」
「十分すごいじゃない。頑張ったんだね」
ストレートに褒められ、照れくさくてつい口元がゆるんでしまう。すると、リッジウェイさんが悪戯っぽく目を細めた。
「じゃあさ、俺と少し英語で話してみようよ。石野くんの英語、聞いてみたいな」
「えっ? ちょっ、心の準備が——」
「Hi Minato, how are you doing?」
み、湊って呼ばれた!!
俺は一体どう返せばいいんだ!!
「あ、I'm good, thank you... Mr. Ridgway…」
「ミスターリッジウェイじゃなくて、ジョンでいいのに」
「いやいや!……そういうわけにはいきませんって!」
英語特有の、急に距離を詰めてくる感じがどうにも苦手だ。いつのまにか日本語に戻ってしまったが、これ以上会話を続ける余裕もなかった。熱くなった耳たぶを冷ますように、強引に話題を切り替える。
「で、俺、英語は苦労した割に実践じゃ使えないなって思ってたんです。でも最近、eBayっていう海外のフリマサイトを見つけて。アンティークの陶磁器が大量に出品されてて、思っていたよりずっと安くて驚きました」
一気に捲し立てると、リッジウェイさんが楽しそうに笑った。
「最近は骨董店も、実店舗よりネットの方が賑わっているらしいね」
「そうなんですか。いろいろ見てたら、素敵なお皿があって、お年玉でも買える額だったから、思い切って買っちゃいました。届いたら持ってきますね!」
「楽しみだな。そうしたら、そのお皿の解説を英語でしてもらおうかな?」
「アンティークのお皿を英語で解説とか、ハードル高すぎますって!」
顔を見合わせて笑い合った。——あの時は、あんなに浮かれていたのに。
翌日。俺は再び午前中にティールームを訪れていた。ただし今の俺は、絶望感を全身から漂わせながら。
「……おはようございます」
ボソッと呟くような挨拶に、リッジウェイさんがビクッと肩を揺らした。
「テスト、ダメだった……?」
「テスト?……あ、ああ。手につきませんでしたけど、そんなのはどうでもいいんです」
「えっ、どうしたの。一体何があったの?」
「俺……取り返しのつかないことをしてしまいました」
「……深刻そうだね。ミーキンに相談してみる?」
「リッジウェイさんがいいです」
「え、あ……そう?俺でよければ」
俺はバッグの中から、厳重にプチプチで包んだ物体を取り出した。テーブルの上にそっと広げる。
一枚の皿。——正確に言えば、かつて一枚だった、真っ二つに割れた無残な姿。
窓から差し込む昼の光が、割れ目の断面をやけに白く際立たせていた。重苦しい沈黙が落ちる。リッジウェイさんの顔に「あちゃー」という文字が浮かんでいるのが見えた気がして、その表情から逃げるように視線を皿へと落とす。
「……皿立てに飾って、リビングの棚の上に置いてたんです。そしたら親父の肘がぶつかって落ちて……割れちゃって」
「あ……そうだったんだ」
「あんな危険な場所に置かなきゃよかったです」
絞り出す声が、どんどん沈んでいく。
「……1850年頃のコープランドの、透かし彫りと綺麗な風景画が入ったお皿で、めちゃくちゃ気に入ってたのに」
「確かに……すごく良い作品だね。高かったんじゃない?」
「いえ、一万円ちょっとに送料だったんで、金額的にはそこまでじゃないんですけど……」
「それは掘り出し物だね——」
言いかけて、リッジウェイさんが咄嗟に口を手で塞いだ。
——やっぱり、すごく良いものだったんだ。専門家のリアクションが、確信となって重くのしかかる。
「170年以上も昔のまま、きれいな状態で残っていたのに。俺の不注意のせいで、積み重なった歴史を一瞬で壊した気がして……作った職人さんにも、申し訳なくて」
俯いたまま、胸の底から言葉が溢れ出た。
「……悲しすぎます」
「お皿は割れたり欠けたりするものだから、そんなに自分を責めなくていいんだよ。でも——」
リッジウェイさんが少し言葉を区切った。窓の外を通る風に、カーテンの裾がふわりと揺れる。
「君のそういうところ、すごく好きだな」
「……!」
思いがけない言葉に顔が跳ね上がりそうになり、慌てて口を結んだまま俯いた。顔がさっきとは違う理由で熱くなる。
リッジウェイさんは真っ二つになった皿を丁寧に手にとると、割れ目をピタリと合わせた。そして、かすかに微笑む。
「修復、してみる?」
「——え」
思わず顔を上げた。
「直せるんですか?」
奥の作業室。段ボール箱の山に囲まれ、ミーキンさんが海外から届いた陶磁器を一つひとつ点検していた。梱包材の乾いた匂いと、微かな埃っぽさが漂う部屋だった。リッジウェイさんに連れられて入っていく。
「ミーキン、作業場借りていい?」
「ん、いいよー……あれ?石野君、なんだか元気ないね」
「彼のお皿なんだけど、今から直そうと思ってね」
「……あー、なるほどね」
状況を察したミーキンさんが、俯いていた俺の前にふと一枚の皿を差し出してきた。
「これ、ちょっと見てごらん」
受け取った瞬間、不思議な違和感があった。表面には、大きなヒビが一本走っている。しかし裏返してみると——
「あっ……」
思わず声が漏れた。器の裏側に、大きめのホチキスの針のような金属パーツがいくつも打ち込まれていたのだ。割れたピース同士を、内側からガチッと繋ぎ止めている。
「これって……」
まじまじと見つめる俺に、リッジウェイさんが優しく語りかけた。
「それは『リベット留め』っていう修復技法なんだよ。キリで小さな穴を開けてから、曲げた金属の棒をホチキスみたいに挿して固定するんだ。強力な接着剤がなかった時代の知恵だね」
——昔の職人さんが残した、修復の痕跡。武骨だが驚くほど正確で、器を愛する執念のような強固さで固定されている。
「新しい皿を買うよりも、修理代の方がずっと高かったはずだよ。それでも、どうしても大切にしたかったんだろうね」
ミーキンさんが愛おしそうに目を細め、リッジウェイさんも静かに頷く。100年以上前の誰かの「器への愛」に触れた気がして、胸の奥が熱くなった。
「俺も——これ、やりたいです!」
「それは職人技だから無理だね」
ミーキンさんの即答。ウッと一瞬で撃沈する。
「……ですよね」
「今は樹脂の接着剤で直すのが主流だよ。そっちでやってみよう」
慎重に、丁寧に。教えてもらいながら樹脂接着剤で固定していく。窓辺の光が少しずつ傾いていくのを横目に、やがて細い一本の筋を残し、皿は本来の美しい姿を取り戻した。
「ありがとうございます……はあ、良かった……!」
「絵皿だし、飾って楽しむ分には全く問題ないよ」
胸を撫でおろす俺を見て、リッジウェイさんとミーキンさんが顔を見合わせて微笑んでいる。
「……本当に嬉しいです。なんか、泣きそう」
「良かったね。さて、俺は検品の続きをやるとするか」
ミーキンさんが次のプチプチ緩衝材に手を伸ばし、テープをはがしていく。
「あっ……」
ミーキンさんの漏らした声に、リッジウェイさんが反射的に振り返った。
「欠けてる。コールドンのデミタスのソーサー」
「!」
直ったばかりの皿を抱えたまま、俺は固まった。
再び、重苦しい沈黙が作業室を飲み込んだ。
(次回に続く)




