初日のカップ
帰宅したのは九時過ぎだった。
「ただいまー」
「おかえり、湊。遅かったのね、お腹すいたでしょ」
「あー……うん、まあ」
生返事をしながら椅子に腰を下ろす。母がキッチンからひょいと顔を出し、鍋の火を強めるのが目の端に映るが、正直、今は食事のことなんてどうでもよかった。テーブルにつくなり、カバンからプチプチの包みをそっと取り出す。
包みを開くと、コールドンのデミタスカップが、無機質な蛍光灯の光を受けて燦然と輝いた。
嬉しい。こんなに素敵なものが、いま自分の手の中にあるなんて。
「はい、お待たせ――って、ちょっと、こんなとこでお店広げないでよ」
シチュー皿を運んできた母が、テーブルの端で手を止める。
「あら、また何か買ったの?」
「違うよ、もらったんだ」
「タダで? まあ、すごい。見せてちょうだいよ」
母は皿をテーブルの隅にどかすと、身を乗り出してソーサーを覗き込んだ。
「あら……ここ、半分だけ花輪みたいな模様になってる。変わったデザインね」
「金継ぎだよ。店長さんが直してくれたんだ」
「あら、傷物だったのね。それでタダなんだ」
「ちげーよ!」
頭のてっぺんから湯気が出そうになる。でも、せっかく作ってくれたシチューを前に喧嘩するのも野暮な話だ。ふう、と息を吐いて、沸きかけた熱を逃がす。
「……もういいから。ご飯食べるから、お母さんはテレビでも見ててよ」
「あら、そう。じゃあお言葉に甘えて」
母が軽い足取りで和室へ消えていくと、テーブルにはまた静けさが戻ってきた。目の前に飾ったデミタスを「おかず」代わりに、シチューを口へ運ぶ。こんな贅沢な夕食、なかなかない。
このデミタスが「コールドン」というメーカーのものだと教えてくれたのは、リッジウェイさんだった。
俺が初めて彼と言葉を交わしたのも、コールドンのティーカップがきっかけだった。これも同じ、上品なネオクラシカルの意匠。金色のエンボスの帯が、縁をぐるりと囲んでいる。
あのカップを見るたび、出会った日のことを思い出す。だから俺はひそかに、あれを「初日のカップ」と呼んでいた。
ティールームであのカップを使って紅茶を出すたび、お客さんが嬉しそうにすると自分のことのように誇らしかったし、少し雑に扱われるとヒヤヒヤした。
あれから、もうすぐ一ヶ月になる。
まさかティールームでの時間が、自分の生活の真ん中になるなんて思ってもみなかった。今では、それ以外の時間のほうが「つなぎ」みたいに感じることさえある。
「お母さん、コーヒーってどこ?」
「棚の右下」
食器として使えるんだから、と思い立って食後のコーヒーを淹れることにした。個包装のドリップパックを開けたはいいものの、紙のカートリッジが大きすぎてデミタスの縁に乗らない。仕方なく計量カップに一度抽出し、そこからデミタスへそっと移す。
口径六センチほどの小さなカップは、あっという間に満杯になった。あと二杯は飲める。
カップを持ち上げ、口をつける。
軽い。驚くほど薄い。唇に触れる感触が、まるで何も挟んでいないみたいに滑らかだった。
淹れたてのコーヒーは苦かったけれど、胸の奥はどこか満たされていた。
*
翌日、ティールームに着くなり、俺はリッジウェイさんにデミタスの使い心地を報告した。
「ああ、あれは『エッグシェル』と呼ばれるものだよ」
リッジウェイさんはカップボードを整えながら、ふと手を止めてこちらを見た。
「卵の殻のように薄くて透明感がありながら、しっかりとした強度を持つ磁器でね。職人たちが長い年月をかけて磨き上げてきた技術なんだ」
「そうなんですね……本当に、卵の殻みたいでした」
感心してうなずいていると、フロアの奥のテーブルから声がかかった。
「はい、ただいま伺います」
声の主は初老の女性で、そのテーブルには――あの「初日のカップ」が置かれていた。
「お伺いします」
「私、このカップがとても気に入ったのだけど、購入することはできないかしら?」
「え……」
ダメだ。だって、それはーー
喉まで出かかった言葉を、なんとか飲み込む。
「……こちらでございますか? もしよろしければ、ほかにも素敵な商品がございますので、ご覧になりませんか」
「そうね。じゃあ、一通り見てから決めようかしら」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねはじめる。
頼む、これだけは選ばないでくれ。
お客さんが席を立ち、ショップコーナーへ向かう。俺はその横にぴたりとついて、彼女の視線の先を目で追いかけた。棚のカップ、お皿、小物類――どれか、どれでもいいから気に入ってくれ。
しかし彼女は小さくため息をつくと、やっぱりというように振り返った。
「やっぱり、あちらのほうがいいわ」
頭が真っ白になった。
「どうしたの?」
背後からリッジウェイさんの声がして、俺ははっと振り返った。
「お客様が……今使っているカップを、購入したいとおっしゃっていて……」
リッジウェイさんは俺の顔をじっと見つめ、少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「石野君、カップを下げて洗ってきてくれる?」
「……はい」
それだけを絞り出し、俺はテーブルへ向かった。
「ありがとうございます。お客様、それではカップのお手入れ方法についてご説明いたしますね……」
背中越しに聞こえるリッジウェイさんの穏やかな声が、やけに遠くの出来事のように薄れていく。
初日のカップは丁寧に洗われ、丁寧にラッピングされて、お客さんの手に抱かれて店を出ていった。
*
閉店後。リッジウェイさんが淹れてくれた紅茶を前に、俺はすっかり抜け殻のようになっていた。
エプロンを外したリッジウェイさんの顔にも、いつもの微笑みはなかった。
「……あのカップ」
不意に切り出され、俺は思わず顔を上げた。
「君と最初に話したときの、思い出のカップだったからね。……俺も、少し寂しいよ」
「……っ」
言葉にならなかった。彼も、自分と同じ気持ちでいてくれたんだ。
嬉しさと寂しさがない交ぜになって、胸の奥から熱いものがこみ上げる。視界が急速に涙でにじんでいった。
「あのお客さんのところで……大切にしてもらえるといいですね」
絞り出すようにつぶやいて、こぼれた涙を手の甲で拭う。
「そうだね」
リッジウェイさんは静かにうなずくと、涙で濡れた俺の手を、そっと、けれど確かな温かさで包み込んでくれた。
カップは、もう戻ってこない。それでも、この手のぬくもりだけは覚えておこうと思った。




