サプライズ
朝の光が、リビングを照らしていた。
眠い目をこすりながらテーブルにつくと、いつも通りの食パン、スクランブルエッグ、そして……英国の気品を纏った美しい絵皿の上に転がる、瑞々しい櫛形のオレンジ。
「って、どこに載せてんだー!」
リビングに俺の絶叫がこだまする。キッチンでフライパンを握っていたお母さんが、肩を跳ね上がらせて振り向いた。
「ど、どうしたの、湊?」
「どうしたの、じゃないよ! 俺のコープランドの絵皿に、オレンジなんか載せないでよ! 酸で絵の具や釉薬や金彩が傷んだらどうすんだよ?! これ、170年も前のアンティークなんだぞ!」
「うるさいわねぇ。出しっぱなしにしておくあんたが悪いんでしょ」
お母さんはフンと鼻を鳴らした。
「棚に飾っておいたら、またお父さんが酔っ払って落とすかもしんないじゃん!」
文句を言いながらも、俺の手は素早く動く。オレンジを近くのガラス器に避難させ、愛おしい皿をすぐさま水で洗い流した。幸い、何ともなさそうだ。
胸をなでおろす俺を見て、お母さんが不思議そうに首を傾げた。
「あんた最近本当に変よね。そんなに骨董品なんて好きだったっけ? まぁ、私も食器集めが趣味だから気持ちは分からなくもないけど……。でも、昨日銀座で買ったやつは完全に失敗だったわ。イギリス製って聞いて買ったのに、裏をよく見たら『チャイナ』って書いてあったのよ。騙されたと思って腹が立ったから、もう捨てちゃった」
「……今、なんて言った?」
心臓がドクン、と嫌な跳ね方をした。
「だから、中国製だったから捨てたって――」
お母さんの言葉が終わる前に、俺は裸足のまま勝手口を飛び出していた。
「ちょっと、湊、どこ行くの!?」という声を背中で聞きながら、ゴミ集積所へと猛ダッシュする。
頭の中でカウントダウンが響く。まだだ、まだ燃えないゴミの収集車は来ていないはず……!
ゼェゼェと息を切らしながら集積所に滑り込む。隅の方に『割れ物注意』とマジックで大きく書かれた紙袋を見つけた。
「これだ!」
ひったくるように回収し、袋の中を覗き込む。二重にされたビニール袋の奥に、確かに皿の影があった。
そっと取り出して確認する。
「……よかった。割れてねぇ」
安堵のあまりその場にへたり込んでいると、パタパタとサンダルを鳴らしてお母さんが追いついてきた。
「あら、わざわざ拾ってきちゃったの? 」
呑気な声を出すお母さんに、俺は皿の裏を突きつけながら、あえてドスの利いた声で言った。
「お母さん。この『CHINA』は、中国製って意味じゃなくて、『磁器』って意味なんだよ!」
「え? そうだったの?!」
お母さんが目を丸くする。俺はここぞとばかりに、一気に捲し立てた。
「昔、ヨーロッパが憧れた白い磁器は、すべて中国から輸入されてたんだ。だから英語圏では、磁器そのものを『チャイナ』って呼ぶようになったの! 『ボーンチャイナ』だって、牛の骨灰を混ぜた磁器って意味だし、この皿の裏にある『プラントタスカンチャイナ』は、イギリスの『プラントタスカン磁器会社』ってブランド名なんだよ!」
「へぇー、知らなかったわ」
感心したように頷くお母さんだったが、ふと眉を上げた。
「あら、それより湊、そろそろ学校じゃないの?」
「――っ! いっけねぇ! こんなところで蘊蓄垂れてる場合じゃねー!」
一気に現実へと引き戻され、俺はゴミ袋を抱えたまま、我が家へと全力で引き返した。
「お母さん! 陶磁器は二度と捨てるなよ! あと、次にアンティーク買うなら、よそじゃなくて俺がバイトしてるとこで買え!」
「はいはい、いってらっしゃい」
*
今日も慌ただしくティールームの仕事が終わった。待ちに待った、賄いのおやつの時間だ。
「石野君、お疲れ様。そこに座って待ってて」
いつものようにリッジウェイさんが紅茶を淹れてくれるのを待っていると、ミーキンさんが珍しく俺の隣に腰を下ろした。
「今日はお客さんと出かけないんですか?」
「うん。今日はちゃんと予定を空けておいたんだ」
「そうなんですか」
ミーキンさんはニコニコしながら、じっと俺の方を見ている。
……なんだろう。なぜ何も言わないんだろう。
不思議な沈黙に、なんだか急に気まずくなってきた。何か話題を探さなきゃと、焦って口を開く。
「えーと、あのー……」
言いかけたその時、リッジウェイさんがテーブルの上に大きな皿を置いた。金色の花綱の縁取りが美しい大皿。その中央に鎮座するのは、鮮やかなイチゴをびっしりと敷き詰めたデコレーションケーキだった。てっぺんに灯った一本のろうそくが、ゆらゆらと小さな影を落としている。チョコプレートには、丸みを帯びた文字でこう書かれていた。
『1st month anniversary』
「え……?」
「「アルバイト一ヶ月記念、おめでとう!」」
ふたりの声が、まるで最初から合わせていたかのように綺麗に重なった。
(うわあ――――っ!)
歓喜の叫びで、胸が爆発しそうだった。声も出ないまま、ケーキから二人の顔へと視線を何度も往復させる。二人とも、本当に嬉しそうに――まるで自分たちの記念日みたいに――俺を見つめていた。
ダメだ、泣きそう。
待て待て、落ち着け俺。いくらなんでも最近涙腺が緩すぎるだろう。
奥歯を噛み締め、なんとか涙をこらえる。
「な、なんでここまでしてくれるんですか……?」
思ったことが、そのまま口から漏れてしまった。違う、そうじゃないだろ。まずはちゃんとお礼を言わなきゃ。
「……ありがとうございます」
やっとのことでそう絞り出すと、二人は顔を見合わせて優しく笑った。ミーキンさんが、いたずらっぽく目を細めて口を開く。
「俺たちもね、石野君にお礼がしたくて。何が良いかなって、ふたりでずいぶん悩んだんだよ」
「ちゃんとお給料も払うから……これからも、ここで働き続けてくれるかな?」
リッジウェイさんが、どこか少し申し訳なさそうに付け加えた。いつも凛としている彼にしては珍しい、遠慮がちな声だった。
「君さえ良ければ……ぜひ、お願いします」
――その一言で、必死に耐えていた防波堤があっさりと決壊した。
視界が、水中に沈んだみたいに大きく歪む。涙の向こうで、一本のろうそくの炎だけが、やけにくっきりと揺らめいていた。
「え、ちょっ…石野君!?」
慌てたリッジウェイさんが、すかさずハンカチを差し出してくれる。
「ほら、ろうそく吹き消して」
ミーキンさんに優しく促されたものの、しゃくりあげる呼吸がそう簡単に整うはずもない。必死に「フーッ」と吹きかける息は、情けないことに五回も連続で的を外した。




