アイスティー
蒸し暑い土曜日の朝だった。図書館から表通りに出た瞬間、湿った空気がまとわりついて、シャツの背中がじわりと汗ばむ。
行き交う人の中で、ミーキンさんだけが涼しげだった。
長い髪をゆるく半分お団子にまとめ、抜け感のある水色の半袖シャツを羽織っている。周りの湿気が嘘みたいに、彼の周りだけ違う空気が流れている気がした。
「あ、石野くん!」
俺の姿に気づいて、ニコッと笑いかけてくる。
「おはようございます」
「おはよう。……って、汗すごいね。何か冷たいもの奢るよ。この辺、自販機くらいしかないけど」
「いえ、俺、自分で――」
「いいから。スポドリ? 麦茶?」
もう答えを待つ姿勢だ。断る隙もない。
「……じゃあ、スポドリで。すみません」
ガタン、と重い音がしてペットボトルが落ちてくる。
「はい」
「ありがとうございます!」
両手で受け取ると、ひんやりとした冷たさが手のひらから伝わってきて気持ちいい。もったいなくて、開けずにしばらく持っていることにした。
「こんな朝早くからどうしたの? バイトまでまだ時間あるでしょ」
「図書館です。陶磁器の本、返しに」
「へえ、偉いね」
「でも……日本語の本、もうだいたい読んじゃって。お店に置いてあるメーカーのことまでは、あんまり詳しく載ってないんですよね」
「あー、それは本国の分厚い辞典クラスじゃないと厳しいかもね」
「専門書、高いし、送料もばかにならないみたいで……」
「そうだ」
ミーキンさんの目が急に輝いた。
「今からうち来る? 何でも貸すよ」
「え」
「歩いてすぐだから。ちょっと寄ってきなよ」
「……いいんですか?」
「もちろん」
歩き出しながら、じわじわと緊張が押し寄せてきた。ミーキンさんの家。想像もしたことがなかった場所だ。
公園を抜けると、低層マンションと小ぎれいな戸建てが並ぶ静かな通りに出る。その一角、細長い八階建てのマンションの前でミーキンさんが足を止めた。
「ここ。ちょっと散らかってるけど、驚かないでね」
エレベーターで七階へ。ドアを開けた瞬間、若草みたいな爽やかな香りがふわりと鼻をかすめた。
「おかえりー」
え?
奥から、聞き覚えのある声が飛んでくる。リッジウェイさんだ。
「一緒に住んでるんですか……?」
「うん。ルームシェア」
えええええ!
なんで今まで気づかなかったんだろう。そういえば昨日、「今日は帰り遅くなる」って言ってた気がする。
俺、勝手に押しかけて大丈夫だったんだろうか。もしかして二人って――いや、そんな空気は感じたことがない。でも面と向かって聞けるわけもなく、頭の中だけがぐるぐる回る。
「石野くん来てるよー!」
ミーキンさんがリビングに向かって声を張った。
「え、うそ!?」
慌てた声とともに、寝癖のついたパジャマ姿のリッジウェイさんが飛び出してくる。
「お、おはよう……こんな格好でごめん! すぐ着替えてくる、待ってて!」
顔を赤くして自室へ駆け戻っていく後ろ姿。いつも隙のない人の、こんな無防備な瞬間。ギャップにやられる。
くすくす笑うミーキンさんに促されて、リビングに通された。「散らかってる」なんて言っていたけれど、実際は驚くほど整っていて、生活感すらほとんどない。無駄な物しかない我が家とはまるで別物だ。これが「かっこいい大人の部屋」というやつか、と思わず見入ってしまう。
「飲み物淹れるから座ってて」
「あ、さっきのスポドリで大丈夫です」
「せっかくだし、美味しいの飲もうよ」
ミーキンさんは手際よくグラスを三つ並べた。
「アールグレイのアイスティー」
「これ、お店のと同じですね」
「飲んだことあったっけ?」
「まだです」
カチ割りの氷がグラスの中でカランと澄んだ音を立てる。透明な氷が光を受けてきらきら揺れた。
「いただきます」
一口含むと、柑橘と花の香りがふわっと口いっぱいに広がる。
「……! すごく美味しいです」
「よかった」
「独特の香りですけど、何が入ってるんですか?」
「ベルガモットっていう柑橘の皮と、コーンフラワーって青い花とか。昔、グレイ伯爵が作らせたのが始まりなんだって。『アール』は『伯爵』って意味」
「由緒正しいお茶なんですね」
「本国はシンプルな紅茶が多いから、フレーバーティーの種類は日本のほうが豊富だと思うよ」
「最近もフルーツとか花入りのお茶、流行ってますよね」
「それに、イギリス人ってレモンティーもほとんど飲まないんだよ。あっちだと『ロシアンティー』って呼ばれてるくらいで」
「え、じゃあ俺たち、知らないうちにロシア風の紅茶飲んでたんですね」
「面白いよね。何気なく口にしてるものにも、探ると色々な経緯があって」
「本当ですね……」
そんな話に花を咲かせていると、Tシャツにパンツというラフな格好に着替えたリッジウェイさんが現れた。寝癖もきれいに直っている。ティールームのエプロンを外した白シャツ姿以外の私服姿を見るのは初めてで、スタイルのいい人は何を着ても様になるんだな、としみじみ思う。
「恥ずかしいとこ見られたな……」
まだ少し頬を赤くしたまま、俺の隣に腰を下ろした。
「昨日、寝るの遅かったんだよね」とミーキンさん。
「うん……新メニューのことで悩んでて。アイスティーの新しいレシピが全然思いつかなくて、調べ物してたら夜更かししちゃった」
「そうだ、石野くんにもアイデア出してもらおうよ」
「え、俺ですか!?」
リッジウェイさんの目がぱっと輝く。
「石野くんって、家では普段どんなの飲んでる?」
「えーと……夏は麦茶か、冷やした緑茶ですね」
「冷やした緑茶?」
「はい。抹茶ラテとかよりすっきりしてて、俺は好きです」
「……それ、いいかもしれない」
「緑茶使ったアイスティー、何か考えてみてよ」
「え!?」
「お願いしても良いかな?」
「は、はい。頑張ります……」
とんでもない宿題を引き受けてしまった。責任重大だ。
――今の俺に必要なのは、イギリスの陶磁器辞典より、ドリンクのレシピ本だったかもしれない。




