思い出のティーカップ
待ちに待った土曜日。俺は1日中ティールームでバイトのはずだった。
しかし今、俺は父が運転する車の後部座席で揺られている。
「湊、トイレ大丈夫? もうすぐサービスエリアだけど」
助手席から母が、後ろの席でふんぞり返っている俺に振り返って聞いた。
「大丈夫」
おばあちゃんちに行く約束を、母がすっかり俺に伝え忘れていたのだ。昨夜、俺は電話でバイト先にキャンセルの連絡を入れた。急な申し出だったにもかかわらず、店長のリッジウェイさんは快諾し、「おばあ様によろしくね」とまで言ってくれた。
平日、帰宅部の俺は毎日2時間ほどシフトに入っているが、2時間なんてあっという間に終わってしまう。だから土日はなるべくバイトに使いたかったのだが……まあ、久しぶりに祖母の家に行くのだからしょうがない。
高速道路を1時間ほど走ると、祖母の家に着いた。郊外の住宅街によくある、昭和の雰囲気を残した一戸建て。庭の柘植の木が丸く刈り込まれている。
ここは母の弟一家と同居していて、車を降りるとすぐに、従兄弟で小学生の倫太郎が飛び出してきた。
「湊! ゲームしようぜ!」
「今着いたところじゃない。何か冷たい飲み物でもどう?」
おばさんが呆れ顔で玄関から顔を出した。
「ありがとうございます、いただきます」
「マリカーしよう! 俺ヨッシーね。湊は?」
「マリオでいいよ」
ゲームは得意な方だし、少し前までは夢中でやっていた。相手が学校の鈴木や山田なら遠慮なくぶちのめすところだが、今の俺はお兄さんだ。接待プレイをしてやらないといけない。ギリギリのところで勝ったり負けたりを繰り返す。
ふと振り返ると、おばあちゃんがニコニコと俺たちの様子を見守っていた。お盆に麦茶を乗せて、俺の横にそっと置く。
「ありがと、おばあちゃん」
視線を画面に戻すと、キッチンからおばさんの声が飛んできた。
「倫太郎、あんたもう塾の時間でしょ!」
「あと1回! あと1回だけ!」
「遅刻するわよ!」
おばさんの声のトーンが上がる。
「今日俺ら夜までいるみたいだしさ。塾から帰ってきたらまた付き合うから、もう行きな」
俺が言うと、倫太郎は「わかった、なら行く!」と素直に立ち上がり、重たそうな塾のリュックを背負って飛び出していった。
倫太郎の足音が遠ざかると、居間は急に静かになった。おばあちゃんと二人、麦茶のグラスの氷が溶ける音だけが響く。
「嵐みてーなやつだな」
俺が苦笑いすると、おばあちゃんが声を上げて笑った。
「倫太郎はいつもギリギリまで遊ぶのよねぇ」
「まーな。もう少ししたら受験でゲームも封印だろ。俺が6年生の時は、新しい文房具を買うのだけが楽しみだったよ」
「湊もあの頃は大変だったわね」
「まあね」
「そういえば湊、英国風のティールームでアルバイトを始めたんでしょう? ちょっと見てほしいものがあるのよ」
おばあちゃんの部屋に入り、古い戸棚を開けてもらうと、そこにはアンティークのカップがズラッと飾られていた。
「おばあちゃん、こんなの持ってたっけ?」
「昔ね、イギリスに旅行に行った時にロンドンのアンティークショップで買ったのよ。だいぶ昔のことだけど」
子供の頃から何度も見ていたはずの棚だった。けれど、昔は気にも留めなかった。それが今は、カップの一つ一つが歴史を語りかけてくるように見えてくる。
「これ……『ブラウン・ウェストヘッド・ムーア』の……」
目に留まったひとつをそっと手に取る。
「ロープハンドルカップだ。1860年代に作られた、すごく良いものだよ。ほら、ハンドルのところとカップの足元が一本のロープで繋がるデザインになってるでしょ? ……あ、でも」
よく見ると、ソーサーの端に小さなヒビが入っていた。
「これ、まだ使えるかしら? お店の方で引き取ってもらえないかと思って」
おばあちゃんが申し訳なさそうに尋ねる。
「うーん……ヒビが入ってると、お店でお客さんに紅茶を出すときにも使えないし、ショップで売り物として出すこともできないんだよね。飾るだけのディスプレイとしてなら使ってもらえるかもしれないけど……でもこれ、おばあちゃんの思い出の品でしょ?」
「倫太郎の塾のテキストが増えるから、この戸棚をあけてほしいって言われちゃってね」
「え」
俺は言葉に詰まった。思わずカップを見つめ直す。
「……おばあちゃん。俺、バイトを始めてから考えたんだ。高いお金を出して、お気に入りのティーカップを買う理由ってなんだろうって」
おばあちゃんは黙って俺の話に耳を傾けている。
「店に来るお客さんたちを見ててさ。この人たちは人生であと何回お茶を飲むんだろうって考えてみたんだ。もし残された時間が短いなら、その1回1回を特別なものにするために大切にすればいい。逆に、これからすごく長い時間を過ごす人なら、ずっと楽しめるんだから奮発して買っても損にはならない。だからさ……」
俺はカップとソーサーをそっと棚に戻した。
「このカップ、俺はおばあちゃんに使い続けてほしいな。おじさんたちには俺から言っておくよ。『これアンティークだから、時間が経つほど価値が上がるんだよ』ってさ」
おばあちゃんは一瞬キョトンとしてから、目を細めた。
「ふふ、そうねぇ」
「そういえば、俺がバイトしてる店の店長さんが、おばあちゃんによろしくって言ってたよ。俺、前日に急にドタキャンしたのにさ、怒るどころかそう言ってくれて。このカップの知識も、その人が教えてくれたんだ。色違いのがお店にあってね。陶磁器にすごく詳しくて、料理も上手で、優しくて……俺、その人のことすごく尊敬してんだ」
言ってから、あ、喋りすぎたな、って我に返る。
「いい人に出会えたのね」
おばあちゃんは優しく俺の顔を見た。
「その人のおかげかしら。湊はもともと優しい子だったけれど、なんだかもっと大人になって、もっと優しくなったみたい」
「えー……? 別にそんなんじゃないけど」
急に照れくさくなって言葉に詰まり、顔が熱くなるのが分かった。リッジウェイさんのことをこんな風に誰かに話したのは初めてだ。多分、相手がおばあちゃんだから言えたんだと思う。
ごまかすように、俺は苦笑いを浮かべた。
「……俺、隔世遺伝でおばあちゃん似なんだと思うわ。お母さんってさ、おばあちゃんからデリカシーみたいなものを綺麗に受け継がなかったよね」
俺が言うと、おばあちゃんは今日一番声を上げて笑った。




