ハロウィンパーティー
乱れた呼吸をなんとか整えながら、冷静になって考えてみる。あんな至近距離で囁かれたら、お客様だってひとたまりもないだろう。ふと視線を上げると、リッジウェイさんは薄暗がりの中でもわかるほど、耳まで真っ赤だった。
(……相当緊張してたんだ)
俺だけじゃなかったらしい。それなら、今のうちに言っておいた方がいい。
「あのー……リッジウェイさん」
「うん? どうしたの、石野君」
「今のファンサ、ちょっと刺激が強すぎるかもしれません」
「えっ……そうだった?」
リッジウェイさんは、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「やっぱり、そうかあ……どうしたらいいかな?」
「あ、えっと、顔は首からこぶし二つ分くらい離して、手も肩に添えなくて大丈夫です!」
「なるほど。それなら、お客様にも失礼にならなさそうだね」
「それに、ドラキュラは伯爵ですから! いつもの気品ある紳士のまま接客していただければ十分ですよ」
「はは、わかった。そうするよ。……ありがとう、石野君に聞いてよかった」
素直に頷くリッジウェイさんを見て、俺は胸を撫で下ろした。
――本当は、俺の心臓がもたないからだ。
それに、あの距離で、あの顔を、他の誰かに向けるのは――いや、考えるのはよそう。
*
今日は午後3時から5時までの2時間、限定30名だけの特別営業。
俺は、あくまで裏方に徹する。ドラキュラの格好はしているけれど、主役はお二人だ。
扉の外に立ち、いらしたお客様の予約を確認して、順番にドアを開けていく。名簿に並ぶのは、お店を愛してくれている常連さんばかりだ。誰が誰の「推し」なのかは、だいたいわかっている。せっかくなら、推しのスタッフにエスコートしてもらえた方が嬉しいに決まっているので、案内の順番はこっそり組み替えておいた。
扉をくぐった瞬間、お客様たちは「わぁ……!」と声を上げて、目を輝かせる。
「――お待ちしておりました、お嬢様。こちらへどうぞ」
ミーキンさんが甘く低い声で囁いて、そっと手を取り、テーブルへエスコートする。さすがだ。一瞬で、店内が夢の世界に変わっていく。リッジウェイさんも、朝の練習どおりの紳士的なエスコートで、お客様たちを優雅に魅了していた。
なお、「首筋に噛みつくフリ」等のリクエストは、後半の撮影タイムでまとめて対応することになったので、今のところお客様たちは、静かに空間を楽しんでくれていた。
全員が席に着いたのを確かめて、俺たちはアフタヌーンティーのスタンドを手際よく運んでいく。
今日だけの『ハロウィン・アフタヌーンティーセット』。ミックスベリーのソースをかけたチキンのサンドイッチと、かぼちゃのスコーン。お化けの形のレアチーズムースに、どっしりした棺桶型のチョコレートケーキ。蜘蛛の巣のアイシングを施したコーヒーケーキに、小さなバラの花びらが添えたワインゼリー。どれも食べるのがもったいないくらいの出来だ。
お出しする紅茶は、通常メニューに加え、ドラキュラコンセプトに合わせて、ローズヒップブレンドも用意する。紺のカップが真紅の紅茶で満たされ、コウモリが羽を広げたようなデザインが妖しく映える。LEDキャンドルが食器の金彩を不規則に煌めかせていた。
すべてのお料理を運び終えたところで、いよいよお待ちかねの撮影タイムが始まった。俺は、お客様から次々とスマホをお預かりして、専属カメラマンに徹する。これなら裏方だ。完璧な作戦だと思う。
最初に呼ばれたのは、ミーキンさんだった。
「お嬢様、どんなポーズがお好みですか?」
ミーキンさんは、お客様の席の横にすっと片膝をついて、下から顔を覗き込むように尋ねた。お客様は「えっ、えっと……」と頬を赤らめて、言葉に詰まっている。
「じゃあ、俺におまかせでいい?」
いたずらっぽく笑って、お客様の手を取る。手の甲にそっと口づけるフリをしてから、ゆっくり顔を上げ、お客様の目をまっすぐ見つめて、ウィンクした。
――シャッターを切るのを、一瞬忘れた。
「石野君、今の撮れた?」
「あっ、はい! 撮れました! ばっちりです!」
画面を見せると、お客様は両手で口を押さえて、顔を真っ赤にしていた。見ていた俺まで、なんだか気恥ずかしい。でも、不思議と嫌な感じがしない。ミーキンさんの距離の取り方は、押しつけがましくなくて、相手が一番嬉しいところで、ぴたりと止まるのだ。
次のお客様は、「あの……首筋に、噛みつくフリを……」とリクエストしていた。
「いいよ」
ミーキンさんは、お客様の斜め後ろへ、音もなく回り込んだ。マントがふわりと広がって、お客様の背中を包むように揺れる。
「……怖くないの?」
耳元で、低く囁く。
「こ、怖く…ないです……」
「そう?声、震えてるけど?」
くすっと笑う気配に、お客様の肩がビクッと震えた。
「……噛みついちゃうぞ?」
首筋すれすれまで、顔を近づける。もちろん、触れてはいない。ぎりぎりのところで止まっている。
「キャッ!」
黄色い悲鳴が上がった。
(すごい……。やりすぎないのに、ちゃんとドキドキさせてる)
ふと、ミーキンさんと目が合った。ミーキンさんは、口の端だけで笑って、「どう?」と言うように、片眉を上げてみせる。俺は、思わず「完璧です!」と口走りそうになった。
ミーキンさん推しのテーブルが賑やかに盛り上がる一方で、リッジウェイさん推しのお客様たちは、落ち着いた雰囲気で、静かにその美しさを見守っている。気品ある彼をそっと見守って慈しむ、そんなタイプの方が多いのかもしれない。
(……って、俺も似たようなものなのかな?)
「失礼します。お嬢様、お写真はどのようなポーズがよろしいですか?」
リッジウェイさんは、お客様の席の横で背筋を伸ばして、真っ直ぐ丁寧に尋ねた。
お客様は、小さな声で言った。
「あの……首筋に、噛みつくフリを、お願いしてもいいですか」
「はい。……では、少し近づきますね」
リッジウェイさんは、そっとお客様の斜め後ろに回った。マントの裾が、ふわりと床を滑る。朝の練習を思い出して、俺は思わずスマホを持つ手に力が入った。
「では、失礼します」
リッジウェイさんの手が、お客様の肩に、触れるか触れないかのところで止まる。そのまま、そっと顔を近づけて、首筋のすぐそばで止まった。画面越しに、リッジウェイさんの彫刻のようにきれいな横顔と、緊張で恥ずかしそうに頬を染めるお客様の姿を、フレームに収める。
(……俺も、朝の練習のとき、あんな顔をしてたんだろうか?)
朝、自分の首筋にかかった、あの温かい息遣いがよみがえる。スマホを握る手に、じんわり汗がにじんだ。
あ、近い。
……お願いだから、それ以上は近づかないでほしい。
そんな優しい表情を、他の人に見せないでほしい。
ただのファンサービスだと頭ではわかっているのに、あの人が誰かに甘い視線を向けている姿を見るたびに、胸の奥が、ちくっと痛んだ。
「はい、オッケーです! きれいに撮れました!」
俺は必死に笑顔を作って、スマホをお客様にお返しした。




