お月見
9月25日金曜日。夕方から俺は、いつものようにローズ&クラウンでアルバイトに励んでいた。
キッチンで調理器具を洗っていると、隣で作業をしていたリッジウェイさんがふと声をかけてきた。
「石野君、今夜の十五夜は、お家で何かするの?」
「十五夜……」
そう言われてみれば、そんな時期だった気もする。けれど、最近は夜空を見上げたのかすら覚えていないくらいだ。
「特に家では何もしませんね。小さい頃は母と一緒に丸いお団子を作って、積んで飾ったりもしましたけど」
「そうなんだ?イギリスではね、今の時期の満月を『ハーベストムーン』って呼んで、収穫のお祝いをするんだよ」
「へえ……似たような行事があるんですね」
「日本みたいに、静かに月を眺めるというわけではないんだけどね。昔、明るい満月の月明かりを頼りにして、夜遅くまで畑の収穫作業をしたことに由来しているんだ」
「どんなお祭りなんですか?」
「教会や学校で食べ物の寄付を募って恵まれない人に配ったり、収穫を感謝して麦の穂をかたどったパンや、ドライフルーツがぎっしり入ったケーキを食べたりするよ」
「わぁ…美味しそうですね」
「そのケーキ、焼いておいたから、よかったら試食してみて」
「え!ありがとうございます。いただきます!」
差し出されたケーキを一口かじってみる。
食感はみっしりと密度の詰まったパウンドケーキのようだ。噛みしめると生地はしっとりとしていて、レーズンやオレンジピールの濃厚な甘みが舌の上でとろけ、そのすぐ奥から、ふわりと品のある紅茶の香りが鼻へと抜けていく。噛むたびに甘さと香りの層が少しずつ表情を変えていくようで、飲み込んだ後もいつまでも余韻が残った。
「とってもおいしいです!これ、生地に紅茶が入ってるんですか?」
「ドライフルーツをね、10時間くらいじっくり紅茶に漬け込んでおいたんだよ」
「へえー!だからこんなに深みがあるんだ……。小麦だけじゃなくて、色々な果物の実りをお祝いしている感じが伝わってきますね」
「そうだね。後でこれを持って、屋上で一緒にお月見でもしようか」
「はい!!」
こんなにもお月見が楽しみになったことなんて、人生で一度もなかった。どうかこのまま夜まで晴れて、きれいな月が見えますように――。
◇
閉店後、俺たちは淹れたての紅茶を魔法瓶に詰め、切り分けたケーキを持って屋上へと向かった。
「あれ?ミーキンさんは?」
「ミーキンは、お客様と約束があるからって」
「そうなんですか……」
と、言うことは。
俺たち、ふたりっきり?
こんな薄暗い、誰もいない場所で!?
「さっきまで曇ってたけど、月は見えるかな?」
「……見えるといいですね」
必死に平常心を装って通常の声のトーンで返事をした。
夜の屋上に足を踏み入れると、流れる雲の切れ間からひょっこりと丸い月が顔を出していた。街の明かりを一段遠くに感じるほど、空気は澄んでひんやりとしている。吸い込まれそうなほど冴えざえとした、美しい月だった。
「うわあ……」
「晴れて良かったね」
風の通る適当なスペースにふたりで腰掛け、温かい紅茶とケーキを味わう。冷えた夜風に触れたケーキは、昼間よりも紅茶の香りが際立って感じられた。
屋上へ来るのは夏の終わりの花火大会以来だ。あの華やかな大輪の花火も感動的だったけれど、あれは一瞬で消えてしまう眩しさだった。今夜のこの静かで優しい光は、絶え間なく俺たちを照らしている――そう思うと、同じくらい、いやそれ以上に胸に響くものがあった。
ふと隣を見ると、リッジウェイさんも空を見上げていた。
青白い月の光に照らし出された彼の横顔が、息を呑むほど美しかった。静かな、張りつめたような美しさ。この世のものとは思えないような、遠い世界に住む存在のように思えて、胸がキュッとなる。
「……あの月の中に、木の枝を背負った男が見える?」
「えっ?木の枝を背負った男、ですか?」
唐突な問いかけに、俺の思考は一瞬フリーズした。
「うん。イギリスではね、月の中に『木の枝を背負った男(Man in the Moon)』が住んでいるって言われているんだよ。でも、日本で見ると角度が違うからかな。そんな風には見えないなぁと思ってね」
「あぁ、なるほど!日本では昔から『餅をつくウサギ』ですね」
「えっ、そうなの?だから日本人はお団子をお供えするのかな」
「うーん……ウサギとお団子の関係はわからないですけど、昔の人はお団子を月に見立てたと母から聞きました」
「そうなんだ。面白いねぇ」
「母が言うことなので、本当かどうかわからないですよ?」
リッジウェイさんが少し困ったように笑った。
大きなユーラシア大陸を挟んで、西の島国と東の島国。
同じひとつの月を見上げているはずなのに、捉えている世界はまるで違う。それなのに今、こうして隣同士で同じ月を見上げていることが、なんだか不思議で、少しだけ愛おしく思えた。
「月が綺麗だね」
リッジウェイさんが静かに呟いた。
その瞬間、俺の心臓がドクンと大きく跳ね上がった。
夏目漱石が英語の「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したという有名な話なんて、きっと彼は知らないんだろう。
……いや、知らなくていい。
ただ、今はその言葉の響きに、どさくさに紛れて自分自身の気持ちを重ねてみたくなった。
「……はい。月が、綺麗ですね」
夜風に揺れるリッジウェイさんの優しい微笑みは、日本の男が口にする「月が綺麗ですね」に隠された本当の意味なんて、なにも知らない顔だった。




