海
恋するティールーム 第一章 夏編 最終話
夏休み最後の日。
陶磁器の本を返却するため、俺はリッジウェイさんとミーキンさんが暮らすマンションを訪ねた。リュックの紐が重みで肩に食い込み、背中とバッグが触れる部分は汗でぐっしょり濡れている。
エントランスのインターホンを押し、エレベーターで7階へ上がる。廊下に踏み出すと、ちょうどタイミングよくドアが開いた。出迎えてくれたのはミーキンさんだ。
「石野くん、おはよう」
「おはようございます!」
「暑いなか、大変だったね」
「いえ、大丈夫です」
「あのさ、今から海行かない?」
「え?! 海、ですか?」
「うん。夏も終わりなのに、俺たち夏らしいこと全然してないじゃん。あ、花火は見たか。でも石野くんも勉強ばっかりだったし、たまにはご褒美に遊びに行こ。俺が運転するからさ」
奥から出てきたリッジウェイさんが、少し困ったような、でも楽しそうな笑顔で声をかけてくる。
「おはよう、石野くん。急でごめんね。鎌倉の由比ヶ浜あたりまで行こうかって話してたんだけど……夏休みの宿題、もう終わってる?」
「はい! 昨日全部終わらせたので、行けます!」
「ふふ、さすがだね」
「よし、決まり! あ、本もらうね」
俺は肩からリュックを下ろし、大切に抱えてきた本を取り出した。
「長い間お借りして、本当にありがとうございました」
「ううん。次の本は、また今度でいいかな?」
「はい、よろしくお願いします!」
夏休みの最後に、突然降って湧いたビッグイベント。リッジウェイさんとミーキンさんとのドライブ、そして海!
マンションの地下駐車場へ降りると、カーシェアの車が待っていた。運転席にミーキンさん、助手席にリッジウェイさん。俺は後部座席に乗り込む。
「はい、水分補給ね」
リッジウェイさんが、冷たいアイスティーの入った俺用の水筒を手渡してくれた。
「音楽かけていい?どんなのが好き?」
「俺、こだわりないんで、おふたりが好きなのを聞きたいです」
カーステレオから流れてくるのは、聴き馴染みのないスタイリッシュな洋楽だ。うちの車で流れる両親の青春ソングと、それに合わせたダミ声の鼻歌とは天と地ほどの差があって、思わず「オシャレだなあ」と心の中で呟く。
後ろから眺めるふたりの後頭部と、並んだ肩。俺と話している時とは少し違う、ふたりだけの柔らかいテンポの会話。話し声が音楽に掻き消されそうで、つい耳をすませてしまう。時折、リッジウェイさんが後部座席を振り返って話題を振ってくれるのが嬉しかった。
高速道路を1時間ほど走らせると、視界が一気にひらけた。海岸沿いの駐車場に車を停める。久しぶりに見る、パーッと広がる青い空と海。車を降りた瞬間、潮の香りと温かい風が全身を包み込み、遠くから響く波音が鼓膜をくすぐった。
まずは海の家へ向かう。
「これ、弟に買ったんだけど、使う機会なかったから、良かったら使って」
リッジウェイさんが海パンとラッシュガードを貸してくれた。現地のレンタルで済ませようと思っていたので、ウィリアムくんには心の中で感謝しつつ、ありがたく着用させてもらう。少しだけ丈が長くて、彼の細い体格を思わせた。
着替えを終えて外に出ると、先に支度を済ませていたふたりの姿が目に入った。
……えっ、腹筋割れてる。肌も綺麗すぎる。
美術室にある石膏像かと思ってしまうくらい、ふたりともエプロン姿やシャツ姿からは想像できないボディだった。「かっこいい人って、見えないところもかっこいいのか……」と感心をしていたら、リッジウェイさんと目が合いそうになり、慌てて視線を逸らす。危ない、凝視してるのがバレるところだった。
「うわー、気持ちいいー!」
「そうだね」
ふたりは眩しそうに目を細め、白い砂浜をゆっくりと歩いていく。波打ち際に足を踏み入れ、寄せては返す水に触れると、ふっと子供のような笑みを浮かべた。俺の足首にも、温かい海水が当たっては引いていく。砂が足の甲を滑り落ちる感覚がくすぐったい。
「俺、久しぶりの海なんで……すごく嬉しいです」
「そっか、なら良かった。俺たちも久しぶりだよ。石野くんは泳げるの?」
「学校で習った程度なのでそんなに得意じゃないですけど、クロールで1キロくらいなら」
「えっ、すご! 日本人ってみんなそんなに泳げるの?」
「泳げる人は結構多いと思いますよ」
「へえー!」
「イギリスでも19世紀頃から海水浴は大流行したんだけどね、泳ぐというよりは健康のために海に浸かったんだよ」
「そうそう。まるで湯治みたいにね」
「当時の人は肌を見せるのを嫌がったから、水着も長袖・長ズボンでハイネックだったんだ」
「ええっ、それはすごく動きにくそうですね……」
「でも、一周回って今のラッシュガードみたいじゃない?」
足先で波と戯れながら、他愛もない雑談を交わす時間。マリンスポーツをするわけでもない、ただ波音を聞いて喋っているだけなのに、幼い頃に浮き輪で揺られていた時以上の楽しさが胸を満たしていく。大人が海で過ごす時間の贅沢さを、俺は初めて知った。
ふと沖を見ると、白い泡が大きく持ち上がっているのが見えた。
「あ、ちょっと強い波が来ますよ!」
「え? そうな――」
言い終わらないうちに、膝丈だった波がグンと盛り上がり、ザバンと腰の高さまで一気に打ち寄せる。
「うわっ!」
「あはは!」
「しょっぱ……」
「リッジウェイさん、大丈夫ですか!?」
「また来るぞ、逃げろー!」
俺たちは声を上げて笑い合い、逃げるように砂浜へ走った。息が上がって、塩水で少ししょっぱい唇のまま、それでも笑いが止まらない。こんなに腹の底から笑ったのはいつ以来だろう。そして、俺と同じくらい無邪気に笑うふたりの姿を見るのも、これが初めてだった。
もうすぐ、夏が終わる。
これほどまでに心が大きく揺さぶられ、色鮮やかに動いた日々があっただろうか。ふたりに出会えて、本当によかった。俺の胸のときめきをそのまま映し出したみたいに、陽光を浴びた海はどこまでもキラキラと輝いていた。




