英国展
ようやく、俺の人間関係のこんがらかった紐がほどけていった。まだ完全に解けたわけじゃないけれど、少なくとも今は、平和で退屈な予備校生活が戻ってきている。
夏期講習の最終週、英語の長文読解の講座。鈴木と山田はもちろん、宮崎さんとも別のクラスだ。心地よい孤独のなかで、俺はテキストを開いていた。
プリントに書かれた「マーガリンの歴史」という文章を追いながら、昔はピンクに着色されていたという事実に少し驚く。「やっぱりサンドイッチには、黄色くて濃厚なバターだよな」と思い、思考は自然とティールームへと飛んでいった。
ミーキンさんから借りた、まるで分厚い辞典のような陶磁器の本は、もう少しで読み終わる。さて、そこで次の問題が浮上する。俺はこの本を、店で返して良いのだろうか。店からミーキンさんの家まで、こんな重い本を抱えて歩かせるのは忍びない。だが、俺が直接自宅まで返しに行くとなれば、またお邪魔してしまうことになる。
――ここは下手に気を回さず、直接聞いて指示に従うのが一番だ。
昼過ぎに授業が終わると、俺はそのまま「ローズアンドクラウン」へ向かった。ビルを出た瞬間、残暑の太陽がジリジリと照りつけ、冷房で冷え切った肌を急速に温めていく。
「お疲れ様です!」
着替えてキッチンに入ると、ミーキンさんがリッジウェイさんとスマホの画面を覗き込んでいた。
「石野君、お疲れ様ー」
「どうしたんですか?」
「さっきお客さんから教えてもらったんだけど、デパートで英国展っていうのがやってるらしくて」
ミーキンさんがスマホの画面を見せてくれた。デパートの催事ページだ。母が毎年カレンダーに印をつけて楽しみにしている、あのイベントだった。
「いろいろ参考になりそうだし、見に行けたらねって話しててさ。石野くん、お店が終わったあと、みんなで行かない?1時間くらいなら見られると思うんだけど」
「はい!ぜひ行きたいです!」
返事は即答だった。三人でお出かけなんて初めてだ。しかも英国展! 楽しみすぎる。
俺の勢いに、リッジウェイさんが目元を緩めて爽やかに微笑んだ。
「よかった。じゃあ今日は片付けをさっと済ませて、すぐに出ようか」
「はい!」
胸の奥で躍る楽しみな気持ちをそのまま笑顔に乗せて、俺はその日の接客をこなした。
*
電車に15分ほど揺られ、駅前のデパートに到着する。エレベーターで7階の催事場へ降り立つと、そこは大勢の客でごった返していた。どこからともなく焼きたてのスコーンや紅茶の甘い香りが漂い、カラフルな英国雑貨が所狭しと並んでいる。
俺もかつて母に何度か連れてこられたことがあったが、当時の俺はイギリスそのものに何の興味もなかった。五つ星ホテルのスコーンをどうしても買いたい母の横で、「待つの嫌だ」と子供っぽく駄々をこねていたものだ。
今日もスコーンのブースには長い行列ができている。噂の五つ星ホテルの列は、なんと40分待ち。俺は心の中で声を大にして叫びたくなった。
(絶対、うちの店のスコーンのほうが美味しいのに!こんなに並ばずに食べられるのに!)
「なんだか、ロンドンのお土産屋さんみたいだね」
ミーキンさんが楽しそうに呟く。ビッグベンや赤色の二階建てバスのキーホルダー、ユニオンジャック柄の革小物など、これでもかとばかりに「イギリス」を詰め込んだ雑貨たちは、見ていて飽きない。
リッジウェイさんは、どこか懐かしそうな眼差しでそれらを眺めていた。
「お二人は、ロンドン出身なんですか?」
ふと思い立って尋ねると、リッジウェイさんが首を振った。
「いや、俺たちはストーク・オン・トレントっていう、イギリス中部の街の出身なんだ。陶磁器で有名な場所でね」
「ストーク・オン・トレント! 本に出てきました!」
借りていた本の中にあった無機質な文字が、一瞬で色鮮やかな風景となって脳裏に立ち上がってくる。いくつもの大きな窯が並んでいる写真があった。
ふたりは目を見合わせ、少しだけ懐かしそうに笑った。故郷の話をするときの、ふだんとは違う柔らかな空気――だからふたりは、陶磁器にあんなに詳しいのか。
そういえば、学校も一緒だったと言っていた。ということは、ふたりは幼なじみなんだろうか。何年も経った今もこうして一緒に店をやって、笑い合っている。なんだか、すごく素敵な関係だなと思う。俺にとってのそういう存在といえば鈴木と山田になるわけだが……ふたりと比べると、色々と落差がありすぎる気がして苦笑いが出た。
「あ、アンティークの陶磁器もたくさん出てるね」
ミーキンさんの視線の先には、整然と並べられた美しいカップたちがあった。優しい色彩で描かれた花柄の、どこか温かみのあるヴィンテージ品ばかりだ。
「このあたりが日本の売れ筋なのかな。古き良き英国を感じさせる、ノスタルジックで優しいデザインが好まれるみたいだね」
「あれ、でも……『すべて鑑賞用です』って書いてありますね」
ふと添えられた小さなポップに気づいて首をかしげると、リッジウェイさんが苦笑交じりに教えてくれた。
「日本ではね、アンティークやヴィンテージの食器を『食品用』として輸入・販売するには厳しい規制があるんだ。だから多くの場合、食器としてではなく『装飾品・雑貨』として販売しなきゃいけないんだよ」
「えっ? まだ全然使えるのにですか?」
「そう。でもまあ、持ち帰ってからどう使うかは個人の自由だからね」
「お役所的なルール、ってことですか?」
「うん。大人の事情ってヤツかもね」
ふたりは顔を見合わせ、少し困ったように「ふふっ」と優しく笑った。
本来なら誰かの食卓で毎日使われるはずだったカップたちが、ただ飾られるためだけにここに並んでいる。そのことに、俺は少しだけ寂しさを覚えた。だからだろうか、それからふたりは、ひとつひとつの皿やカップを、まるで旧友に再会したかのような愛おしそうな目で見つめていた。本当にこの人たちは、陶磁器を愛しているんだなと胸が温かくなる。
「あ、そういえば……お借りした本、全部読み終わりました」
「ええ!? もう? 早かったね、偉いなあ!」
リッジウェイさんが驚いたように目を丸くする。
「忙しいのに頑張ったねー!」
ミーキンさんもパッと表情を輝かせた。
大好きなふたりに思いっきり褒められ、ニヤけそうになるのを必死で押し留めながら、俺は本題へと話を持ちかけた。
「ありがとうございます、すごく面白かったです! で……その本をお返ししたいんですが、どうしたらいいでしょうか? お店でお返しすると、家まで持ち帰っていただくのが大変かと思って」
俺の配慮に気づいたのか、ミーキンさんはふんわりと微笑んで答えた。
「月末に臨時休業を取るから、その時にうちに持ってきてよ。――また、次の本も借りるでしょ?」
次の本。
どうやら俺は、また新しい宿題と、ふたりの家に通う口実を手に入れてしまったらしい。




