花火
「ねえ、石野君。今夜予定ある?」
リッジウェイさんの急な問い掛けに、俺は一瞬フリーズしてしまった。
予定はない。かと言って、内容によってはお断りしないといけないし、できれば先にお誘いの理由を言ってほしかった。そんな思考のせいで、二秒ほど妙な間が空いてしまう。
「今夜、花火大会があるってさっき知ったんだけど、一緒にどうかなと思って」
「は、花火大会、ですか?」
「このビルの屋上で見るから、夕飯も持ち込んだら良いねって、ミーキンと話してたんだよ」
「行きます!」
食い気味に答えてから、少し早口すぎたかもしれないと気づく。
「そう? じゃあ、お家の人に連絡しておいてね」
「はい!」
ホッとしたような、少しだけ拍子抜けしたような、でも今はそれ以上にすごく楽しみで、いろんな感情が胸の中で慌ただしく湧き上がっていた。
バイトが終わって、俺は家に連絡するためにスマホを取り出した。
画面には、山田からのLINE通知が入っている。楽しい気分を水を差されたくなくて、今は未読のまま画面を閉じた。
家に連絡を済ませた俺は、花火大会までの時間、フロアの掃除に没頭することにした。
アンティークチェアの背もたれを専用のクリーナーで丁寧に拭いていく。仕上げに家具用ワックスを付けた布で磨き上げると、ダークブラウンの木肌がしっとりと深みのあるツヤを取り戻した。細かな象嵌細工の模様までもが、まるで当時の輝きを取り戻したかのようだ。百年以上も前に作られたチェアが、こうして今も現役で使われているなんて本当にすごいと思う。
それに、当時のイギリス人は小柄だったのか、サイズ感が今の日本人の体型(というか、俺)に、しっくり馴染んで座り心地が良い。俺も将来自分の家を持ったら、家具は絶対アンティークで揃えよう、と心に決めた。
立ったりしゃがんだりしながら一脚ずつ綺麗に磨いていると、ふと視界に影が入った。
店のガラス扉の向こうから、鈴木と山田が中を覗き込んでいる。
パチッと目が合うと、「こっちに来い」と手招きされた。せっかく凪いでいた気分に、また小さな波が立つ。
俺はわざとらしく大きなため息をつき、掃除道具を置いた。
扉を押すと、ドアベルがちりんと涼やかな音を立てた。
「何だよ……?」
「わりーけど、今話せる?」
山田が言った。
「少しなら別にいいけど」
「じゃあ、店の外で」
再びベルをちりんと鳴らして店を出る。
エレベーターホールまで移動すると、それまで黙っていた鈴木がようやく口を開いた。心なしか、視線が定まっていない。
「お前さあ、宮崎のこと、どう思ってんの?」
「どうも思ってねえよ」
「楽しそうに話してたじゃんか」
「陶磁器の話をしてたからだよ」
「宮崎のやつ、お前とインスタ交換できなかったからって『LINE繋げてくれ』って俺に言ってきてさ」
「え?」
「で、なんでって聞いたら、お前に彼女がいるのか逆に尋ねられて……」
「うん」
「『湊は陶磁器にしか興味ないぞ』って言ってやったんだよ」
「なんだそれ」
「でもさ……お前がその話をしてる時、キラキラしててかわいかったんだと」
「……」
うわー最悪だ。恥ずかしすぎる。俺は一体どんな顔をして熱弁していたんだ。頬のあたりがじわりと熱くなるのを感じる。
気まずい空気を取りなすように、山田が間に割って入った。
「湊には悪いけど、宮崎さん最近彼氏と別れたばっかりでさ。鈴木が大喜びした矢先だったんだよ。察してやってくれよ」
鈴木、まずはそういう子どもっぽいところから直せよな、と呆れ半分に思う。
「じゃあ、俺にどうしろって言うんだよ」
「お前から宮崎に、誰か好きな人がいるとか適当な理由をつけて、諦めさせてくれ」
「は?」
「頼む!」
頭を下げる鈴木を見て、ふと、いつか夜の街で見かけたミーキンさんの姿がフラッシュバックした。『付き合ってる人いるから』と女性の誘いを断っていたあの場面も、もしかしてこういうことだったのだろうか。ミーキンさんの口調はどことなく躊躇いがちで、女性を傷つけないように気遣って、嘘をついたんじゃないかと思えてきた。
「……わかったよ。ったく、めんどくせーな」
「マジ助かる! さすが俺のダチ」
「調子いい奴だな。さっきまで思いっきりメンチ切ってたくせに」
俺と鈴木は顔を見合わせて苦笑した。
「これで一件落着だな。俺も湊と鈴木には今まで通り仲良くしてほしいからさ、安心したよ」
なぜか山田が満足そうにまとめに入る。
「じゃあな、俺バイトに戻るから」
「ああ、また明日」
鈴木と山田は、すっかり晴れやかな笑顔になって去っていった。その背中を見送りながら、俺のさっきまでの重い気分もすっと軽くなっていった。
掃除道具を片付けてバックヤードに戻ると、リッジウェイさんとミーキンさんが花火鑑賞の準備を進めていた。ドリンクやテイクアウトの包みを手際よく袋に詰めている。
「すみません、遅くなりました!」
「ちょうどよかったよ。そろそろ行こうか」
「はい!」
屋上に出ると、湿気を含んだ夏の夜風が、ほんのりと都会の匂いを運んできていた。
すっかり日が暮れて、下に広がる街の明かりが、本来そこにあるはずの喧騒を優しく隠している。見上げると、ビル群の眩しさに邪魔されながらも、夜空に夏の大三角を見つけることができた。
「いろいろ準備してくださって、ありがとうございます」
俺はドリンクとお弁当を受け取り、屋上の端の適当な段差に腰掛けた。コンクリートに残る昼間の熱が、座った太もものあたりからじんわりと伝わってくる。
「そろそろだね」
三人で並んで、同じ夜空を見上げる。
ヒュ〜ッ……と、一筋の光が真っ直ぐ空へと伸びていった。
次の瞬間、夜空に大輪の花が咲き誇った。暗闇の中にドーンと大きな音が響き、お腹の底まで振動が伝わる。ふと隣に目をやると、リッジウェイさんとミーキンさんも同じように空を見上げていた。花火の光が瞬くたびに、ふたりの横顔がオレンジや水色にふわりと染まる。ふたりとも子どものように目を輝かせていて、いつも店で見せる大人びた表情とはまるで違う。
次々と打ち上げられる花火が、漆黒の空を眩しい黄金色に染め上げていく。そして赤や緑の光の粒が、夜の静寂へと撒き散らされていく様子を見つめながら——俺はさっきショップで見せてもらった、あの小さなジュエルのカップを重ね合わせていた。あの粒のひとつひとつと同じくらい、今この瞬間も、キラキラしている。




