初めてのスコーン作り
今日から塾の夏季講習が午前中になった。塾から店までは徒歩十五分。俺が店に着いたのは、十二時を少し過ぎた頃だった。
なるべく急ぎたいけれど、猛暑の中をダッシュしたら汗だくになってしまう。日陰を選んで歩き、バックヤードに滑り込むなり汗拭きシートで全身を拭って、持参した清潔な半袖シャツに着替える。
よし、これで「優雅なティールームの店員」としての支度は整った。茶色のエプロンを身につけ、腰紐をきゅっと固く結ぶ。
キッチンへ向かうと、そこにはウィリアム君がいた。俺と同じシャツとエプロン姿で、手際よく紅茶を淹れている。
(……俺、まだ調理には関わらせてもらえてないのに。ちょっと羨ましい……)
「これ、2番テーブルにお出しして」
リッジウェイさんに促され、ウィリアム君は紅茶の乗ったトレイを手にスッとフロアへ出ていく。お兄さんといる時の「甘えん坊」な顔とはまるで違う、気品あふれる完璧な笑顔で、あっという間にお客さんの目を釘付けにしていた。
(……なんなんだ、このキラキラした兄弟は)
眩暈がしそうな眩しさに気圧されつつも、俺だって負けてはいられない。……とはいえビジュアルで勝負できるはずもなく、俺は俺らしく丁寧な接客に徹するしかなかった。
「石野君、今日も暑いねえ」
「本当にそうですね! お冷や、氷多めにお持ちしますね」
常連さんに声をかけられ、いつものように和やかに世間話をする。
——その時、ふと視線を感じた。
チラと目をやると、カウンターの奥からウィリアム君がじっとこちらを見つめている。
(……観察されてる??)
用事を終えてキッチンに戻ると、ウィリアム君がぽつりと呟いた。
「お客さんと仲いいんだね」
「あ、はい。今の方にはいつも可愛がってもらってて……」
「ふーん……」
静まり返るキッチン。
(なんだろう、この気まずい空気……! 俺たち、本当に仲良くなれるんだろうか……?)
冷や汗をかいていると、リッジウェイさんが俺たちに声をかけた。
「ふたりでスコーン作ってくれる?」
「え? 石野君と……?」
ウィリアム君が少し怪訝そうな顔を浮かべる。
「そう。彼、作るの初めてだから教えてあげて」
「……うん、わかった」
ウィリアム君はレシピが完全に頭に入っているらしく、迷いなく材料を取り出し、はかりで正確に計量していく。小麦粉、牛乳、バター、砂糖、卵……。
手順が分からず、俺はただ隣で横目に見守る置物と化していた。
「あのー……次、俺は何をしたらいいですか?」
「じゃあ、粉とベーキングパウダーを合わせてふるって」
(あ、それならできる!)
昔、お母さんのケーキ作りを手伝った時に粉ふるい器を使ったことがあった。少しほっとして、教えられた通り作業に取り掛かる。
ふるった粉と、砂糖と、小さく角切りにされた冷たいバターが、二つのボウルに分けられた。
「それ、指先でバターと粉を擦り合わせて混ぜていくんだよ。やってみて」
「はい!」
言われた通り、指の腹を使ってさらさらと馴染ませていく。ひんやりしたバターが少しずつ体温で緩み、粉を吸って重たくなっていくのが分かった。
「こんな感じで大丈夫ですか……?」
「うん。そのまま、大きなダマがなくなるまで続けて」
「わかりました」
黙々と二人でボウルに向き合い、シャリ、シャリ、という音だけが響く。
と、ウィリアム君がぽつりと口を開いた。
「イギリスではね、女の子が初めてお母さんから習うお菓子がスコーンなんだよ」
「あ、そうなんですか!」
「うん。今はみんな忙しいから、親子でお菓子を作る機会も減っているかもしれないけど……君、経験があるみたいだね」
「はい。まあ……少しだけですけど」
「……昨日、石野君が考えた緑茶アイスティー飲んだよ」
「え?」
「味覚が繊細なんだなと思った。小さい頃から、ちゃんとしたものを食べて育ってきたんだね」
考えたこともない視点だった。
(……お母さん、いつも美味しいご飯作ってくれてありがとう……)と心の中で感謝する。
「僕はお菓子作り、全部兄さんから教えてもらったんだ。……君も、兄さんのお菓子食べたことある?」
「はい、あります! すっごく美味しいですよね!」
俺が勢いよく答えると、ウィリアム君は拍子抜けしたようにフッと笑った。
「僕、君が兄さんと一緒にいられて羨ましいよ。君のこと聞いた時、現地で『弟ポジ』に収まってるやつがいるのかなって、嫉妬したけど……」
「ええっ!?」
「……君は、『アプレンティス』だった」
「アプレンティス……?」
首を傾げる俺を無視して、ウィリアム君はパンパンと手を叩いた。
「さ、じゃあ卵と牛乳を加えて混ぜたら、一つにまとめて、生地を冷蔵庫で休ませるよ」
「あ、はい!」
俺たちは再びボウルに向き合い、作業を再開した。
——一時間後。
オーブンから焼き上がったスコーンは、リッジウェイさんが焼く本物に劣らない、見事な「狼の口」——側面にぱかりと開いた割れ目——が入った、完璧な仕上がりだった。
出来立てのスコーンを挟んで、俺とウィリアム君はお互いに満足げな顔で見合わせる。
そこへリッジウェイさんがやってきて、いたずらっぽく微笑んだ。
「仲良くなれたかな?」
(あ……最初からこれが目的だったのか!)
察した俺を余所に、ウィリアム君はすんとすました顔で答えた。
「まあね」
「はい! おかげさまで!」
俺は元気に頷いた。
◇
その日の夜、気になってスマホで「アプレンティス(apprentice)」の意味を調べてみた。
『名詞:見習い、弟子、初心者』
(……弟子!? 俺、リッジウェイさんの弟子扱いされてたの!?)
画面を見つめたまま、俺はしばらく固まってしまった。




