推しぬい
俺が家に帰ったのは、夜の十時過ぎだった。
「ただいま……」
「お帰り、湊。ご飯できてるわよ」
「……食べちゃったからいらない。疲れたから、シャワー浴びて寝る」
「あら、そう?」
お母さんが心配そうな声を出す。
「ごめん」
それだけ吐き捨てるように言って、そのまま浴室へ向かった。
頭から勢いよく浴びたシャワーは、思ったより冷たかった。肌が冷たさに慣れてくるのに任せて、俺は浴室の椅子に深く腰掛け、ただ下を向いていた。ザーという水音に紛れさせるように、さっき目の当たりにした光景と、あの声を反芻する。
『ごめんね、俺付き合ってる人いるから』
ミーキンさんの声が、頭の中で何度もリフレインする。
——なんであの時、「こんばんは」って声をかけなかったんだろう。
もしそうしていれば、あんな言葉を聞かずに済んだはずなのに。
リッジウェイさんとミーキンさんがそういう関係だったら嫌だ、なんて思ってしまう自分が心底嫌だ。
俺には何の関係もない話じゃないか。
なのに、どうしてこんなに胸が押し潰されそうに嫌な気持ちになるんだろう。自分でも処理しきれない感情に振り回されて、モヤモヤとしている自分にも嫌気が差す。
シャワーが、このどろどろした気持ちごと全部洗い流してくれたらいいのに。そんな都合のいいことは起きないと分かっていながら、俺はしばらくそこから動けなかった。
*
翌朝、俺はバイトの始業時間より少し早めにティールームへ向かった。
バックヤードのドアを開けると、甘く香ばしいキャロットケーキの匂いがふわりと漂ってきた。シナモンの香りに混じって、バターの焦げる匂いがする。少しだけ、昨夜の重たい気持ちが緩んだ気がした。
「おはようございます……」
「おはよう、石野君」
キッチンを覗くと、リッジウェイさんがいつも通りの柔らかい微笑みで出迎えてくれた。
「今日はキャロットケーキを焼いたんだ。食べてみて」
一口サイズに切り分けられたケーキがフォークに載せられて差し出される。
「いただきます……。これ、すごく美味しいです!」
「ほんと? よかった!」
弾けるような笑顔。今の俺にはその眩しさが少しだけ眩しすぎて、つい目を逸らしてしまった。
「……あと、昨日のサンドイッチもすごく美味しかったです。ありがとうございました」
ペコッと頭を下げる。
「じゃあ今日も持っていく? 昨日はローストビーフだったから、今日はコロネーションチキンにしようか」
「いえ! そんな毎日、お手を煩わせるわけには……!」
慌てて手を振って断ろうとした。
「俺は全然構わないんだけど——」
そう言いかけて、リッジウェイさんがピタリと動きを止め、俺の顔をじーっと見つめてきた。
一秒、二秒、三秒……。数えるほど長く感じる沈黙に、耐えきれなくなって俺は再び視線を泳がせた。
「石野君、何かあった?」
眉をひそめ、心底心配そうな顔をするリッジウェイさん。
(えっ!? なんで? なんでバレた!?)
「い、いえ! 何もありません!」
「うーん……ちょっと目が腫れぼったいし、顔色も、疲れてるのかなって」
「!」
急激に顔へ血が上っていくのが分かった。
「そ、そうですか? 塾の課題で夜更かししたせいかな……?」
そう言って誤魔化してみたものの、心臓のドクドクという音がどんどん大きくなっていく。すると、リッジウェイさんのひんやりとした手が、スッと俺のおでこに触れた。
うわああ〜っ!
「顔が赤いけど、熱はなさそうだね」
「 ほ、本当に大丈夫ですってば!」
「ふふ、でも無理は禁物だよ。今日も暑いし熱中症も怖いから、お水をたくさん飲んでね。バイトも辛くなったらすぐ言って」
「は、はい! 俺、着替えてきます!」
逃げるようにバックヤードへ駆け込んだ。
(どうしようやばい何なんだこれ! 俺、変に意識しすぎだろ……!)
鞄からペットボトルを引っ張り出し、ぬるくなった水を勢いよく喉へ流し込んだ。少しだけ火照りが冷めたところで、エプロンを身につけ、紐をギュッと固く結ぶ。
「おはよう、石野君」
不意に背後から声がした。飛び上がりそうになる。
「お、おはようございます……!」
「今日も暑いねー」
「そうですね……」
「今日も夜は塾?」
「あ、はい。今週は一週間、夕方から夜までのスケジュールで」
「そっか、大変だねぇ」
「はい。なので……お借りしている本、読むペースが落ちちゃってて」
「返すのはいつでもいいよ。ゆっくりで大丈夫。無理しないでね」
「はい、ありがとうございます」
ミーキンさんは小さく微笑むと、優雅な足取りでショップの方へと歩いて行った。
ミーキンさんだってこんなに親切でいい人なのに。二人の幸せを素直に喜べない俺って、どんだけ嫌な奴なんだろう。
……いや、待てよ。まだ二人が“そういう関係”だと決まったわけじゃない。勝手に決めつけて落ち込むのはやめよう。
よし、もうすぐ開店だ。頭を切り替えなきゃ。
*
もうすでに、店の外からはお客さんたちの賑やかな話し声が聞こえていた。いつもなら開店二十分前くらいからパラパラと並び始めるのだが……今日は明らかに様子が違った。
見慣れない若い女性客ばかり。そして全員が、手に何かを抱えている。
「いらっしゃいませ、お待たせいたしました」
ドアを開けてお通しした瞬間、店内になだれ込んできた客たちが口々に声を上げた。
「わ、本当だ! そっくり!」
「やばい、まんまあの空間じゃん!」
何のことだろう、と首を傾げる。
次々にお客さんを席へ案内していくが、誰も彼もが「本当にそっくり!」と大盛り上がりだ。そしてテーブルの上には、当然のように小さな人形やアクリルスタンドが並べられていく。どのテーブルも、全く同じキャラクターのグッズだ。
——推しぬいだ。
ぬいの顔を観察してみるが、俺の知識には引っかからない。おそらく女性向けのコンテンツのキャラクターだろう。舞台のモデルになったとか、似てるとSNSでバズったとか、そういう理由で急に聖地化してしまったのかもしれない。
静かで落ち着いた英国風ティールームの雰囲気は、一瞬で吹き飛んでしまった。
(ここ、コラボカフェかよ……!?)
店内があっという間に満席になり、外にはまだ長い列ができている。
そこへ、常連のおばさんが不審そうに店内を覗き込んできた。
「あら、石野君。今日は何か特別なイベントでもやってるの?」
「あ、いえ……そういうわけではないんですが、なぜか急にこういう状況になっていまして……」
「そう。じゃあ今日は混みそうだし、また出直すわね」
「すみません! いつもありがとうございます、またよろしくお願いします……!」
遠ざかる常連さんの背中を見送りながら、俺は冷や汗を拭った。
これはまずい。昨日からのモヤモヤなんて吹き飛ぶくらい——完全に異常事態だ!




