予備校
最悪だ。
俺は今、予備校の教室の中にいる。
本来ならこの時間はバイトを終えて、リッジウェイさんと楽しくお茶をしているはずだった。
だが現実は、バイトを少し早めに上がらせてもらい、俺の目の前には『夏期講習 高1現代文』と書かれただけの無機質なテキストが広げられている。殺風景な教室で担当講師が来るのを待つこの時間が、何とも言えず憂鬱だった。
「あれ、湊じゃん! うっそ、なんでお前がこんなとこにいんの!」
「あー、ほんとだ。予備校デビューとか渋すぎ」
声をかけてきたのは、同じ学校の鈴木と山田だった。ふたりしてニヤニヤしながら俺の両脇に椅子を引きずってくる。
「うるさいな、お前らもだろ」
「いやいや俺らは仕方なくだって。親に泣きつかれて」
「文系だったら、うちの学校のやつは大体ここに集まるだろ。……あ、でも湊は英語のクラス別だっけ? どこ?」
「俺? SSだけど」
「はあ!? マジかよ! SSなら塾なんて来なくても余裕だろ、なんで来てんの!」
鈴木がガタッと椅子から身を乗り出す勢いで叫んだ。
「いや……俺なんてまだまだだよ」
「いやいや謙遜すんな、うちのクラスとかSSの奴ら宇宙人扱いだぞ」
山田が半笑いで肩をすくめる。ふたりの適当なやり取りに苦笑いしながら、俺は心の中で思った。
バイト先の人から借りた陶磁器の専門書。英語で書かれたあの分厚い本をスラスラ読みこなすには、俺の語学力は全然足りていないのだ。ページをめくるたびに知らない単語が並んでいて、辞書を引く手は休むことがない。それでも、あの本を読み切りたいという気持ちだけは、揺るがない自信があった。
「……なんか湊、すげえな。急に受験生として目覚めた感じ?」
「尊敬の域だわ、マジで」
山田たちが感心したように呟いたタイミングで、教室前方のドアが開き、講師が教室に入ってきた。二人は慌てて自分の席へと戻っていく。俺は一つ小さな溜息をつき、テキストのページをめくった。
講師の解説を聞き、出された演習問題を解く。採点待ちのわずかな隙間時間、俺の思考はあっという間にティールームへと飛んでいってしまう。
思えば今日、お店で二つもいいことがあったのだ。
一つ目は、俺が考案した「ゆずとミントの緑茶アイスティー」が褒められたこと。
お客様が「美味しいわ」と絶賛してくれた時、リッジウェイさんが「これは、彼が考案してくれたオリジナルレシピなんですよ」と誇らしげに紹介し、俺に向かって優しく微笑んでくれた。あの瞬間、舞い上がるほどうれしかった。
そして二つ目は、予備校に向かう俺に、リッジウェイさんが特製のサンドイッチを持たせてくれたこと。
『夜遅くまで勉強大変だね。 お腹が空いたら食べて』
お店の一番忙しい時間帯に抜ける俺に対して、嫌な顔一つせず、笑顔で持たせてくれたのだ。胸も心もお腹もいっぱいになりそうだった。
(休み時間になったら食べよう。今の俺の楽しみはそれだけだ)
待ちに待った休み時間。俺は机の上にアルミホイルで包まれたサンドイッチを広げた。
お店のアフタヌーンティーセットにも使われている、特製のローストビーフときゅうりのサンドイッチだ。
一口かぶりつく。……おいしい。美味しすぎる。
しっとりと柔らかいローストビーフに、外は香ばしく中はふわふわのパン。極薄にスライスされたきゅうりのシャキッとした食感と爽やかな甘み、そして後から追ってくる濃厚なバターの風味。
予備校の冷たい蛍光灯の下で、俺は噛み締めるように幸福感に浸った。周りの奴らがコンビニのパンを頬張っている中、自分だけが特別な時間を持っているような、そんな優越感さえ覚えた。
◇
予備校からの帰り道。
俺は鈴木と山田の二人と一緒に、ネオンがギラギラと眩しい夜の繁華街を抜け、駅へと向かっていた。
ふと、混雑する人波の中に、見慣れた高い背格好の後ろ姿を見つけた。
(……ミーキンさん?)
間違いない。だが、その隣には見覚えのない女性が立っていた。
二人は少し落ち着いた雰囲気のバーの前で立ち止まり、何かを話しているようだった。
誰だろう? 一体何を話してるんだ?
覗き見なんて趣味じゃない。でも、どうしても気になって足が止まりかける。俺は狭い歩道を利用して、前を歩く鈴木と山田の背後に素早く滑り込み、身を隠しながら距離を詰めた。心臓が変な速さで脈打っているのが自分でも分かった。
すれ違いざま、ミーキンさんは俺たちに背を向けていた。
雑踏の喧騒の隙間から、彼の落ち着いた低い声が、はっきりと俺の耳に届いた。
『――ごめんね。俺、付き合ってる人がいるから』
俺たちは、そのまま二人の横を素通りしていく。
付き合ってる人。
それって、誰だ?
やっぱり……リッジウェイさんなのか?
ドクン、と心臓が大きく、嫌な重さを持って脈打つのを感じながら、俺は夜道を行く二人の背中に続いて、駅への階段を下りていった。何で自分がこんなに動揺しているのか、その理由を考えるのが怖くて、俺はわざと鈴木たちの馬鹿話に相槌を打った。ネオンの光が滲んで見えたのは、きっと、ただの目の錯覚だと思いたかった。




