第9話「刃を砕く共鳴と背中合わせの熱」
床を蹴るたび、肺に吸い込んだ甘く濁った毒の香りがシアンの意識を泥のようにかき混ぜる。
だが、その毒気を燃やし尽くすほどの強烈な焦燥が、足に信じられないほどの速度を与えていた。
玉座に迫る複数の刃の軌道。
エドガーは膝をついたまま、虚ろな目で迫り来る死の光を見つめている。
間に合わない、そう思われた瞬間、シアンは外套の下に隠し持っていた銀のペーパーナイフを引き抜き、跳躍するようにしてエドガーの盾となる位置に飛び込んだ。
金属同士が激突する鋭い音が、広間にけたたましく響き渡る。
シアンの細い手首が衝撃で軋み、ペーパーナイフの刃が中ほどから無惨に砕け散った。
弾き飛ばされた衝撃で体が宙を舞い、シアンはエドガーの胸元に崩れ落ちるように倒れ込んだ。
「ルカ……っ!?」
エドガーのしゃがれた声が、耳元を打つ。
驚きと混乱が交錯するその声色に、シアンは荒い息を吐きながら顔を上げた。
至近距離で、エドガーの熱く乾いた呼吸がシアンの頬を撫でる。
毒香によって暴走寸前だったαの強烈な気配が、シアンの体を抱きとめた瞬間、ぴたりと動きを止めた。
シアンから放たれる微かなΩの香りが、ヴィクトルが撒き散らした粗悪な香薬の毒気を中和し、エドガーの奥底にある理性を強烈な引力で引き戻したのだ。
それはオメガバースという血の理屈を超えた、魂の底から相手を希求する番としての確かな共鳴だった。
「……退け。お前まで、巻き込まれる」
エドガーは震える腕でシアンをかばいながら、その背中を強引に引き剥がそうとする。
だが、シアンはエドガーの服の胸元を強く握り締め、決して離れようとはしない。
「いいえ。もう二度と、あなたを独りの暗闇には残しません」
震える声、だが決意に満ちたはっきりとした言葉が、エドガーの鼓膜を打つ。
その言葉を聞いた瞬間、エドガーの灰色の瞳に宿っていた翳りが、鋭い刃のような光を取り戻して冴え渡った。
「……馬鹿な、なぜ陛下が立ち上がる! 早くやれ! 殺せ!!」
ヴィクトルの狼狽した叫び声が広間にこだまする。
暗殺者たちが再び体勢を立て直し、今度は二人をまとめて串刺しにしようと殺到してくる。
エドガーはシアンの腰を片腕でしっかりと抱き寄せると、ゆっくりと立ち上がった。
先ほどまでの苦しげな様子は完全に消え失せ、本来の王者としての底知れぬ威圧感が広間の空気を支配する。
「余のものを、薄汚い刃で傷つけようとした罪。その身で償わせてやる」
氷点下まで冷え切った凄絶な声とともに、エドガーは空いた片手で最も近くにいた刺客の腕を掴み、そのまま軽々と背負い投げて大理石の床に叩きつけた。
鈍い骨の折れる音が響き、刺客が痙攣して動かなくなる。
エドガーの力は、常人のそれをはるかに凌駕していた。
彼はシアンを背中合わせになるように自分の後ろへ回し、自らの体で完全に盾となる。
「余の背中から離れるな。決してだ」
低い声での命令に、シアンは「はい」と短く応じ、エドガーの熱い背中に自身の背をぴたりと密着させた。
分厚い衣服越しでも、互いの心臓の鼓動が重なり合って伝わってくる。
その熱が、シアンの全身から恐怖を完全に拭い去った。
エドガーは素早い動きで次の刺客のみぞおちに重い蹴りを沈めた。
手からこぼれ落ちた長剣を空中で奪い取る。
流れるような美しい剣さばきが、シャンデリアの光を反射して銀色の弧を描いた。
悲鳴を上げる間もなく、刺客たちの武器が次々と弾き飛ばされ、膝を折って崩れ落ちていく。
その圧倒的な武と、一切の隙のない暴力的な美しさに、広間の群衆は息を呑んで立ち尽くした。
ヴィクトルが仕掛けた周到な罠は、シアンという一つの計算外の存在によって完全に瓦解しようとしている。
「こんな、こんな馬鹿なことがあってたまるか……っ! 私の計画が、たかが一人のΩごときに!」
ヴィクトルは狂乱して後ずさり、出口へ向かって逃げ出そうと身を翻した。
「逃がすな」
エドガーの短く鋭い号令とともに、広間の大扉が外から激しい音を立てて蹴り開かれた。
流れ込んできたのは、エドガー直属の精鋭である近衛騎士団だった。
彼らは瞬く間にヴィクトルとその一派を取り囲み、冷たい槍の穂先を首元に突きつける。
広間の中心には、剣を下ろしたエドガーと、その背中に身を寄せ合うシアンの姿だけが残された。
毒の香煙は開け放たれた扉から入る夜風に流され、次第に薄れていく。
背中越しに伝わるエドガーの深い深呼吸の動きに合わせ、シアンの張り詰めていた筋肉からようやく力が抜け落ちた。
「終わったぞ、ルカ」
静かに振り返ったエドガーの顔には、今まで見たこともないほど柔らかく、深い安堵の色が浮かんでいた。
その表情を見た瞬間、シアンの目から堪えきれない涙があふれ出し、頬を伝って熱く零れ落ちていった。




