第10話「崩れゆく野望と冷徹なる裁き」
広間の空気を支配していた緊迫感は、ヴィクトルの絶望に満ちた叫び声によって完全に断ち切られた。
近衛騎士の硬質な甲冑がこすれ合う音だけが、シャンデリアのまばゆい光の下で冷ややかに響き渡る。
磨き抜かれた大理石の床に力ずくで押さえつけられ、首筋に鋭利な槍の穂先を突きつけられた宰相は、もはや先ほどの優雅な仮面をかなぐり捨てていた。
「離せ。私を誰だと思っている。この帝国を裏で支え続けてきたのは、他でもない私だぞ」
声は裏返り、怒りと恐怖がないまぜになって醜く歪んでいる。
エドガーは手にした刺客の長剣を傍らの騎士へ無言で渡し、床に組み伏せられたヴィクトルの前へと静かに歩み寄った。
大広間に居並ぶ貴族たちは皆、息を殺して床にひれ伏したまま、誰一人として声を発しようとはしない。
エドガーの靴底が大理石の床を打つ音が、死神の足音のように等間隔で室内に落ちる。
彼はヴィクトルの数歩手前で立ち止まり、一切の温度を感じさせない灰色の瞳で見下ろした。
「帝国を支えていたのではない。己の野心と権力欲を満たすため、国の根幹に寄生して甘い汁をすすっていただけのことだろう」
低く硬質な声が、広い空間の隅々にまで反響する。
ヴィクトルは顔を上げ、憎悪に満ちた目で若き皇帝を睨みつけた。
「私が失脚すれば、西部の領主たちが黙ってはいない。内乱が起きるぞ」
「西部の者たちとは、すでに密約が済んでいる。お前が長年にわたり軍資金を横領し、私兵を蓄えていた証拠の数々とともに、その首を差し出すことでな」
冷徹な事実を突きつけられ、ヴィクトルの顔から急速に血の気が引いていく。
エドガーはヴィクトルの動きを最初から完全に掌握し、あえて泳がせていたのだ。
彼が自ら皇帝に牙をむき、動かぬ反逆の証拠を衆人環視の場で晒すこの瞬間を、ただ静かに待ち構えていた。
「この帝国の膿は、今宵をもってすべて切り捨てる。連れて行け」
エドガーの短く鋭い命令が下されると、騎士たちは無言のままヴィクトルの両脇を抱え上げて引きずり出した。
わめき散らす宰相の声が遠ざかり、やがて重い扉の向こう側へと完全に消え去る。
毒の香煙が残した焦げた匂いも、吹き込む冬の夜風に流されてすっかり薄れていた。
大広間には、深い静寂だけが残された。
事後処理を近衛騎士団長に任せ、エドガーはゆっくりと身を翻す。
その視線が向かった先には、玉座の近くの柱に寄りかかり、荒い呼吸を繰り返しているシアンの姿があった。
シアンは乱れた衣服の襟を片手でかき合わせながら、何とかその場に立ち続けていたが、膝は小刻みに震えている。
エドガーの歩みが少しだけ早くなり、あっという間にシアンの目の前まで近づいた。
「顔色がひどく悪い」
エドガーの大きな手が伸び、シアンの冷え切った頬をそっと包み込む。
その指先の不器用な優しさに触れた瞬間、シアンの中で張り詰めていた緊張の糸がふつりと音を立てて切れ、体が前方へと傾いだ。
反射的に受け止められ、分厚い胸板に額がぶつかる。
α特有の深く鋭い香りが鼻腔をくすぐり、シアンの奥底でざわめいていたΩの本能が、急速に波を打って静まっていくのを感じた。
「申し訳、ありません。少しだけ、めまいが……」
力なくつぶやいたシアンの声の途中で、エドガーの眉間がわずかに険しさを増した。
シアンの右手が、不自然な角度でだらりと垂れ下がっているのを見逃さなかったからだ。
エドガーの視線が、床に砕け散った銀のペーパーナイフの破片に注がれる。
自らを庇い、刺客の重い刃をあんな脆い刃物で防いだのだ。
細い手首には、尋常ではない衝撃が加わっていたはずだった。
「……無理をして立つな。私室へ行くぞ」
エドガーはシアンの反論を許さず、その膝裏と背中に腕を差し込み、軽々と抱き上げた。
周囲の視線など一切気に留める様子もなく、大股で広間の出口へと向かう。
シアンは恥ずかしさと戸惑いで身をよじろうとしたが、体を支えるエドガーの腕の力がそれを許さなかった。
鼓膜越しに伝わってくる彼の心臓の音が、少しだけ早く脈打っていることに気がつき、シアンは諦めてその熱い胸に深く身を預けた。




