第8話「欺瞞の夜会と開かれる罠」
後宮の中心に位置する大広間は、昼間と見紛うほどのまばゆい光に包まれていた。
天井を覆い尽くすほどの巨大なシャンデリアが無数の蝋燭の炎を反射し、磨き抜かれた大理石の床に黄金色の模様を描き出している。
壁際には高名な楽団が配置され、弦楽器の滑らかな音色が空間の隅々にまで反響していた。
帝国の高官や貴族たち、そして後宮に集められた色とりどりの衣装をまとう側室候補たちが、グラスを片手に優雅な歓談を繰り広げている。
シルクの擦れる音、香水の入り混じった甘い匂い、意図を隠した作り笑いの気配。
すべてが華やかで完璧な夜会の光景だが、シアンの神経は極限まで張り詰めていた。
広間の端、巨大な柱の陰に身を潜めながら、シアンは鋭い視線で人々の動きを監視する。
先ほど自室で嗅ぎ取った、あの焦げたような甘い異臭の発生源を探るためだ。
呼吸を浅く保ち、感覚を研ぎ澄ます。
談笑の輪の中心から少し離れた場所に、微動だにせず立つ数人の給仕の姿が目に留まった。
彼らの視線は、来賓のグラスの空き具合ではなく、一段高い場所に設けられた豪華な玉座へと執拗に向けられている。
ふいに、楽団の演奏が静まり、重々しい銅鑼の音が広間に響き渡った。
群衆が一斉に言葉を止め、中央の道を開けるようにして両端へと後退する。
大扉がゆっくりと開き、漆黒の礼服に身を包んだエドガーが姿を現した。
その瞬間、空気が物理的な重さを持ったかのように、広間全体がαの強烈な威圧感に包み込まれる。
凍てつくような冷たさと、誰も近づくことを許さない圧倒的な王者の気配。
人々は一斉にその場に膝をつき、深く頭を垂れた。
エドガーは誰にも視線を向けることなく、静かな足取りで赤い絨毯の上を進んでいく。
だが、玉座へと続く階段の途中で、彼の足がぴたりと止まった。
灰色の瞳が、平伏する群衆の中を滑るように動き、柱の陰で膝をつくシアンの姿を正確に捉える。
ほんの一瞬、その冷酷な仮面に隠された瞳の奥が、熱を帯びてわずかに揺らいだのをシアンは見逃さなかった。
エドガーは再び前を向き、玉座に深く腰を下ろした。
彼が軽く手を上げると、楽団が再び華やかな曲を奏で始め、夜会が正式に幕を開ける。
人々が立ち上がり、再び談笑が始まったその直後だった。
広間の四隅に置かれた巨大な香炉から、一斉に濃厚な紫色の煙が立ち上る。
空調の風に乗り、それはあっという間に広間全体へと拡散していく。
肺に吸い込んだ瞬間、シアンは激しいめまいに襲われ、柱に手をついて辛うじて体を支えた。
皮膚の下で血が沸騰するような異常な熱。
Ωとしての本能が、理性のタガを外して暴れ出しそうになるのを、奥歯を噛み砕くほどの力で耐える。
『毒の香薬……っ』
シアンは荒い息を吐きながら、玉座のエドガーを見上げた。
エドガーの様子が明らかにおかしい。
彼は玉座の肘掛けを強く握りしめる。
前かがみになって荒い呼吸を繰り返している。
顔色は青ざめ、額には脂汗が光っていた。
周囲の貴族たちも異変に気づき、ざわめきが波のように広がり始める。
「陛下? 御加減が……」
最前列にいた大臣の一人がおずおずと声をかけた瞬間、エドガーが低い咆哮のような声を漏らした。
αの暴力的な気配が制御を失い、目に見えない圧力となって広間の空気を叩き潰す。
近くにいた者たちが恐怖に顔を引きつらせ、悲鳴を上げて後退した。
「おお、これはなんと痛ましい。若き皇帝陛下が、自らの力を抑えきれずに狂乱なされるとは」
混乱の渦中、大げさな嘆きの声を上げて進み出たのは、宰相ヴィクトルだった。
彼の目は歓喜に歪み、口元には隠しきれない邪悪な笑みが浮かんでいる。
「皆の者、陛下は理性を失っておられる! すぐに保護し、別室へお連れしろ!」
ヴィクトルの指示が響いた瞬間、怪しい動きを見せていた給仕たちが、一斉に懐から白刃を抜いた。
保護という名目のもと、丸腰で苦しむエドガーに向かって、殺意に満ちた刃が四方から迫る。
エドガーは立ち上がろうとするが、香薬の毒が神経を麻痺させているのか、足元がよろけ、再び玉座に片膝をついてしまった。
冷たい刃のきらめきが、エドガーの首筋へと容赦なく振り下ろされる。
シアンの頭の中で、何かが弾け飛んだ。
過去の憎しみも、身分を偽る仮面も、自らの命に対する執着も、すべてが燃え尽きて消え去る。
ただ彼を、この世で唯一、自分を真っ直ぐに見つめ返してくれたあの灰色の瞳を、失いたくないという強烈な願いだけが肉体を突き動かした。
「エドガー!!」
喉が張り裂けるような叫び声を上げ、シアンは群衆を乱暴に押し退けて玉座へと駆け出した。




