第7話「静寂の熱と暗躍する影」
鉛色の雲が厚く空を覆い、音もなく細かな雪が帝都に舞い降りていた。
厚いガラス窓に張り付いた雪の結晶が、室内の暖気でゆっくりと溶けて水滴になり、透明な軌跡を描いて滑り落ちていく。
執務室の中には、暖炉で赤々と燃える薪の爆ぜる音だけが規則正しく響いていた。
シアンは銀製のポットを傾け、白磁のカップに琥珀色の茶を静かに注ぎ入れる。
立ち上る湯気とともに、カルダモンと乾燥した林檎を煮出したような、かすかに甘くスパイシーな香りが冷え切った空気に溶け込んでいく。
盆にカップを乗せ、分厚い書類の束に目を通しているエドガーの机へと歩み寄った。
羊皮紙をめくる手を止め、エドガーがゆっくりと顔を上げる。
深い疲労を湛えた灰色の瞳が、差し出された茶と、それを運んできたシアンの顔を交互に映し出した。
「少し、休憩なさってはいかがでしょうか」
低く抑えた声で語りかけると、エドガーは小さく息を吐き、羽ペンをインク壺の横に置いた。
背もたれに深く身を預け、長い指でカップの取っ手をつまみ上げる。
シアンは盆を抱えたまま一歩下がろうとしたが、エドガーのもう片方の手が伸びてきて、シアンの細い手首をふわりと捕らえた。
予想外の接触に、心臓が肋骨の裏側で激しく跳ねる。
エドガーの手のひらは驚くほど熱く、かすかに硬い剣だこがシアンの皮膚に押し当てられていた。
脈打つ血流の速さが、皮膚越しに直接伝わってくるような生々しさだ。
「……陛、下」
戸惑いを含んだ声が漏れるのを止められない。
エドガーは視線をシアンの手首に落としたまま、親指の腹で微かに脈を探るようになぞった。
「お前の手は、いつも冷たいな。まるで氷の彫刻のように、自らの熱を外に出すことを拒んでいるようだ」
かすれた声が耳の奥まで届き、背筋に甘い痺れが走る。
振り払うこともできず、シアンはただその場に縫い留められていた。
彼に触れられるたびに、Ωとしての本能が奥底で粟立ち、甘い熱となって下腹部に溜まっていくのを必死に理性で押さえ込んでいる。
同時に、彼の指先から伝わる圧倒的な孤独の気配が、シアンの胸を締め付けて離さない。
エドガーがゆっくりと顔を上げ、至近距離で視線が絡み合った。
その灰色の瞳の奥に、かつて自分へ向けられていた底なしの暗闇とは違う、静かで熱を帯びた光が揺らめいているのに気づく。
息をするのも忘れ、互いの呼吸が混ざり合うほどの距離で沈黙が流れる。
不意に、重厚な扉の向こうから慌ただしい足音が近づいてくるのが聞こえた。
エドガーはわずかに眉間にしわを寄せ、シアンの手首から静かに指を離した。
冷たい空気が触れた部分に流れ込み、シアンは喪失感に似た奇妙な疼きを覚えながら、慌てて数歩後ずさる。
「入れ」
エドガーの短く鋭い声に、扉が開いて侍従長が姿を現した。
彼は恭しく一礼し、手に持っていた書状を差し出す。
「陛下、今宵の夜会に向けた最終確認の書状が、宰相閣下より届いております」
その言葉を聞いた瞬間、シアンの背筋を冷たい水が流れ落ちた。
数日前に庭園で遭遇した、ヴィクトルの粘り気のある声と冷たい蛇のような視線が脳裏に蘇る。
エドガーは書状を受け取ると、冷ややかな視線で内容に目を通し、短く鼻で笑った。
「ご苦労。予定通り執り行うと伝えよ」
侍従長が下がり、扉が再び閉ざされると、室内には元の静寂が戻った。
だが、先ほどまでの穏やかな空気は完全に消え去り、目に見えない緊迫感が張り詰めている。
「お前も、今宵の夜会には出席してもらう」
書類を机の端に放り投げながら、エドガーが静かに告げた。
「側室候補として後宮の奥に隠しておく時期は、過ぎたようだ。あの古狐が、どれほど周到な罠を張っているのか、見物させてもらおう」
エドガーの言葉には、自らが陰謀の標的になっていることを完全に理解している余裕と、凍りつくような殺意が滲んでいた。
シアンは胸の前で両手を固く握りしめる。
彼を守らなければならない。
たとえ、それが己の身を危険にさらすことになろうとも。
◆ ◆ ◆
夜会に向けた準備が進む後宮の片隅で、冷たい風が回廊を吹き抜けていた。
薄暗い石柱の影に、豪華な衣服をまとった男がひっそりと立ち止まっている。
宰相ヴィクトルだ。
彼は手にした小さな金属製の香炉を、細めた目で満足げに見つめていた。
「いよいよ、今夜ですね。閣下」
背後から音もなく近づいてきた黒装束の男が、深く頭を下げる。
ヴィクトルは香炉の蓋を指で弾き、微かに金属音を響かせた。
「すべては計画通りだ。この香りの前では、どれほど強大なαであっても理性を保つことはできまい」
喉の奥で転がすような、濁った声が回廊の空気を歪める。
彼が手にしているのは、隣国の密輸商人から大金を叩いて買い付けた禁断の香薬だ。
火をくべて煙を吸い込んだが最後、αの血を沸騰させ、周囲のΩを無差別に襲わせるほどの猛毒となる。
正気を失った皇帝が公衆の面前で獣のように振る舞えば、その権威は完全に地に堕ちる。
「その隙を突き、混乱に乗じて若き暴君の首を落とす。玉座は、より相応しい者の手に委ねられるべきだからな」
冷酷な笑みを浮かべ、ヴィクトルは従者へ香炉を渡した。
「抜かりなく配置しろ。火の点き具合、風向き、すべてに気を配るのだ」
黒装束の男が香炉を受け取り、闇の中へと静かに溶けていく。
残されたヴィクトルは、庭園に降り積もる雪を見つめながら、自身の勝利を確信したように唇の端を吊り上げた。
「美しい花も、泥にまみれてこそ価値が出るというものだ。ルカ殿、あなたの役割も大いに期待していますよ」
誰にも聞こえない低い声が、冷たい風に混じって不吉に響く。
同じ頃、自室で身支度を整えていたシアンは、窓の外から吹き込む風に微かな異臭が混じっていることに気がついていた。
甘く、焦げたような、脳の奥を直接かき回すような不快な匂い。
直感の警鐘が、シアンの全身の細胞を激しく叩き起こす。
罠は、すでに口を開けて獲物を待っている。
シアンは外套の下に、以前からひそかに持ち出していた銀の短いペーパーナイフを忍ばせた。
武器と呼ぶにはあまりにも心もたないが、今はこれしかない。
決意を胸に刻み、シアンは重い扉を押し開けて、華やかな光と音楽が漏れ聞こえる広間へと歩み出した。




