第4話「氷の玉座と隠された素顔」
後宮の奥深くに留め置かれる生活は、突然の終わりを告げた。
エドガーからの直々の命により、シアンは皇帝の専用執務室へ日中のみ出入りすることを許可されたのだ。
目的は、膨大な量にのぼる各地からの報告書や過去の法典を整理し、新たに書き写す作業の手伝いである。
高い天井に向かって黒檀の本棚が壁一面にそびえ立ち、
壁を覆い尽くすように重厚な装丁の書物が隙間なく詰め込まれていた。
部屋全体に漂っているのは、乾いた革の匂いと、年月を経て酸化したインクのツンとした匂いだ。
分厚い絨毯は足音を完全に吸い込み、室内はまるで世界の果てに取り残されたような異様な静寂に包まれている。
巨大なマホガニーの机に向かい、エドガーは朝から一度も立ち上がることなく政務を続けていた。
羽根ペンが羊皮紙の表面を滑るかすかな摩擦音だけが、等間隔で室内に刻まれていく。
シアンは部屋の隅に用意された小さな机で、古い資料の書き写しに没頭していた。
時折、背中の筋肉をほぐすために顔を上げると、必ずエドガーの横顔が視界の端に入る。
豪華な装飾を削ぎ落とした漆黒の執務服をまとう彼の姿勢は、彫像のように乱れがない。
しかし、その身から放たれる気配は、謁見の間に漂っていた威圧的なそれとはまったく異なっていた。
周囲を畏怖させるαの圧倒的な覇気は影を潜め、代わりに冷たく張り詰めた疲労の色が、彼の肩の線に重くのしかかっているように見える。
誰も立ち入らせず、ただ一人で広大な帝国を支えようとするかのようなその背中は、シアンが思い描いていた暴君の姿からはあまりにもかけ離れていた。
しばらくして、羽ペンの動く音がふいに途絶えた。
エドガーがわずかに眉間にしわを寄せ、長い指で目頭を静かに押さえる。
小さく、けれども深く吐き出された息の音が、静寂の中でひどく耳に響いた。
シアンは手元の書類を揃え、椅子から音を立てずに立ち上がる。
机の前に進み出ると、エドガーは目を開け、視線をこちらへ向けた。
冬の夜空のように底知れない暗色を帯びた瞳が、シアンの顔を真っ直ぐに捉える。
「西部の農業地帯に関する収穫報告書の写しが、終わりました」
平静を装って差し出した紙束を、エドガーは無言で受け取ろうとする。
その瞬間、互いの指先がわずかに重なり合った。
シアンは反射的に手を引こうとしたが、エドガーの指がその動きを静かに押し留めた。
驚くほど熱い体温が、かじかんだシアンの指先へと直接流れ込んでくる。
それは、冷酷無比という噂に隠された、生身の人間としての鮮烈な命の熱だった。
「……お前は、余の前に立っても一切の媚びを売らぬな」
書類を受け取りながら、エドガーが低く響く声で言葉を落とす。
シアンは背筋をまっすぐに伸ばし、視線をそらさずに答える。
「私は没落した家の養子として、ここへ送られた身にすぎません。皇帝陛下のお心を引くような作法は、持ち合わせておりません」
あえて偽りの出自を口にしたシアンに対し、エドガーはわずかに唇の端を上げた。
嘲りではなく、どこか自嘲にも似た冷たい弧の形。
「その強情さが、この息の詰まる部屋ではかえって心地よい。誰もが余の顔色をうかがい、腹の底で権力の甘い汁をすする算段を立てている中で、お前の瞳だけは別のものを真っ直ぐに見据えているからだ」
その言葉の裏にある真意を探ろうと、シアンの胸の奥が微かにざわめく。
エドガーは書類へと視線を戻し、再び新しい羽根ペンを手に取った。
「下がって休め。今日の作業はここまでだ」
有無を言わせぬ響きに、シアンは深く一礼して執務室を後にする。
重い扉を背中で閉めると、回廊の冷たい空気が火照った頬をなでていった。
自分が彼を討つためにここへ来たことを、エドガーはどこまで知っているのか。
もし見透かされているのだとしたら、なぜこれほどまでに無防備な背中を晒し、自らの領域へ踏み込ませるのか。
敵意と困惑が入り混じり、シアンは握りしめた拳を胸に当てる。
手のひらに残るエドガーの不器用な熱が、いつまでも皮膚の奥でくすぶり続けていた。




