第3話「偽りの名と夜風の波紋」
後宮での生活は、思いのほか単調だった。
豪華な衣服が毎日届けられ、手の込んだ食事が用意される。
しかし、部屋の外へ出ることは厳しく制限され、外部との接触は完全に絶たれていた。
窓枠に飾られた花瓶の薔薇がしおれ、新しいものに替えられるのを見るだけの時間が流れていく。
数日が過ぎたある夜。
部屋の明かりを落とし、シアンは一人、窓辺に寄りかかっていた。
薄い夜着が一枚、肌を覆っているだけだ。
外から吹き込む風が火照った体をわずかに冷ましてくれる。
空には鋭い欠け月が浮かび、帝都の街並みを青白く照らし出していた。
ふと、廊下の向こうから近づいてくる足音が鼓膜を捉えた。
規則正しく、しかし重みのある足運び。
女官や見回りの兵士のそれでは決してない。
足音が自室の扉の前でぴたりと止まった瞬間、シアンは反射的に窓辺から離れ、部屋の中央で身構えた。
取っ手が音もなく回り、厚い扉がゆっくりと押し開かれる。
回廊の薄明かりを背にして立っていたのは、長身の人影だった。
「起きていたか」
低く静かな声に、シアンの肩がびくりと跳ねる。
エドガーだった。
供も連れず、皇帝がただ一人で側室候補の部屋を訪れるなど、前代未聞だ。
闇に目が慣れてくると、彼がいつもの豪華な礼服ではなく、装飾の少ない簡素な夜具を身につけているのがわかった。
それにもかかわらず、その身から放たれるαの気配は、謁見の間で感じた時よりもはるかに濃密で生々しい。
シアンは慌てて膝をつこうとしたが、エドガーの長い腕がそれを制した。
「構わない。そのままでいろ」
部屋の中へ足を踏み入れたエドガーは、扉を静かに閉める。
外の光が遮断され、室内に残されたのは月明かりだけになった。
エドガーは部屋の中を見渡し、窓辺に置かれた椅子のひとつに腰を下ろした。
深く背もたれに寄りかかり、足を投げ出す。
その動作には、日中の張り詰めた緊張感がわずかに欠けており、隠しきれない疲労の色がにじみ出ていた。
シアンは一定の距離を保ちつつ、エドガーの顔をうかがう。
暗闇の中でも、灰色の瞳はシアンを正確に捉えていた。
互いの呼吸音だけが、静かな部屋に落ちる。
なぜここに来たのか。
何を求めているのか。
隙があれば喉笛を食いちぎってやりたいのに、エドガーが放つ奇妙な静けさが、シアンの行動を縛り付けていた。
「お前は、夜風が好きらしいな」
唐突に落とされた言葉に、シアンは一瞬返答に詰まる。
「……閉ざされた空間よりは、外の空気を感じる方が性に合っております」
慎重に言葉を選びながら答えると、エドガーは短く鼻で息を吐いた。
「鳥籠に閉じ込められた鳥が、空を恋うようなものか」
その言葉の棘に、シアンは奥歯を噛み締める。
反論をこらえ、ただ静かに視線を返すことしかできない。
エドガーは椅子からゆっくりと立ち上がり、シアンの方へと歩み寄った。
数歩の距離が、あっという間にゼロになる。
シアンの顔のすぐ近くまでエドガーの顔が近づき、彼から放たれる体温と香りが鼻腔を直接打ち据えた。
凍てつく森の奥にひそむような、深く鋭い香り。
Ωとしての本能が激しく粟立ち、下腹部に熱がこもるのを必死に抑え込む。
エドガーの長い指が伸びてきて、シアンのあごを軽く持ち上げた。
肌と肌が触れ合った瞬間、電気のような痺れが背筋を駆け上がる。
「お前の目は、従属を知らない」
かすれた声が、耳元で低く響く。
「ルカという名を名乗りながら、その奥で何かを激しく憎悪している。違うか」
心臓が喉から飛び出しそうになるほど脈打つ。
すべて見透かされている。
なら、なぜ自分を生かしておくのか。
なぜ今、自分の首をはねないのか。
シアンの胸の内で無数の疑問が渦巻くが、声に出すことはできない。
ただ、目の前の灰色の瞳に宿る、底知れない暗闇を見つめ返すことしかできなかった。
エドガーの指がシアンのあごから離れ、頬をそっとなぞる。
その指先の動きには、冷酷な暴君の姿からは想像もつかないほどの、不器用な労わりが混じっているように感じられた。
それはあまりにも一瞬の出来事で、シアンが息を呑む間もなく、エドガーは身を翻して扉の方へと歩き出した。
「せいぜい、その牙を研いでおくことだ」
背中越しに冷ややかな言葉を残し、エドガーは静かに部屋を出ていく。
扉が閉まり、再び完全な静寂が戻ってきた。
シアンはその場にへたり込むようにしゃがみ込み、荒くなった呼吸を整える。
頰に残るエドガーの指の熱が、いつまでも消えずに皮膚を焼き続けていた。
復讐の対象であるはずの男に、ほんのわずかでも心をかき乱された自分が許せない。
シアンは自らの両手で顔を覆い、冷たい大理石の床の上で深く息を吐き出した。
月明かりが、部屋の中央で小さくうずくまる影を静かに照らしていた。




