第2話「玉座の暴君と交差する視線」
控えの間に呼び出された後、シアンはさらに奥の広間へと通された。
歩みを進めるごとに、周囲の空気が重みを増していくのが肌でわかる。
天井まで届く太い柱が等間隔に並び、壁際には炎を揺らす大きな燭台がいくつも配置されていた。
蝋の溶ける匂いと、金属がこすれるようなかすかな音が響く。
広間の最奥、一段高くなった場所に据えられた玉座。
そこに座る人影の輪郭が、揺らめく光の中に浮かび上がっていた。
シアンは数歩手前で足を止め、深く身を沈めて大理石の床に膝をついた。
両手を前につき、額を床に近づけて平伏する。
冷たい石の感触が、額の皮膚を通して脳の芯まで伝わってくる。
その瞬間、頭上から降り注ぐ空気が劇的に変化した。
呼吸を阻むような重圧。
肌の表面が粟立ち、首筋の産毛が総毛立つ。
それは間違いなく、頂点に立つαが放つ生きた気配だった。
ただそこに座っているだけで、周囲のすべてをねじ伏せるような濃密な力が空間を満たしている。
「面を上げよ」
低く、よく通る声だった。
弦を弾いたような硬質な響きが、広い空間の壁に反響してシアンの耳に届く。
シアンはゆっくりと上体を起こし、視線を前へと向けた。
玉座で足を組み、片手で頰杖をつく男。
若き皇帝、エドガー。
夜の闇を溶かし込んだような黒い髪が、揺れる炎の光を受けてかすかに金色の反射を見せている。
冷酷な美しさを備えた顔立ちは、彫刻のように一切の感情を欠いていた。
何よりシアンの視線を縫い留めたのは、その両目だ。
凍りついた湖面のような灰色の瞳。
エドガーの視線がシアンの顔を捉えた瞬間、火花が散るような静かな衝撃が胸を貫いた。
心臓が不規則に跳ね、喉の奥がカラリと乾く。
敵国の皇帝。
アルストリアを滅ぼし、すべてを焼き尽くした張本人。
燃え上がる憎悪が血管の中を駆け巡るはずなのに、なぜか指先は別の理由で震えていた。
エドガーの瞳の奥には、勝利者の驕りも、供物を眺める欲望も存在しない。
ただ底の抜けたような冷えきった暗闇だけが広がっている。
「名を」
再び落とされた短い問いかけに、シアンは背筋をまっすぐに伸ばしたまま答える。
「ルカと申します。陛下にお目通り叶い、光栄の至りに存じます」
声が震えないよう、下腹部に力を込める。
丁寧に紡いだはずの偽りの言葉は、しかし乾いた空気の中でひどく空々しく響いた。
エドガーはわずかに目を細め、頰杖をついていた手を下ろした。
椅子の背もたれに体を預け、長い指でひじ掛けを一度だけ静かに叩く。
「ルカ、か」
口の中でその音を転がすように、エドガーはゆっくりと繰り返した。
そのわずかな間合いに、背筋を冷たい汗が流れ落ちる。
見透かされている。
確かな根拠は何もない。
だが、その灰色の瞳は、シアンが身にまとった幾重もの偽りをすべて剝ぎ取り、奥底に隠した真実を暴き出しているかのような鋭さを持っていた。
息をするのも忘れ、シアンはじっと玉座を見つめ返す。
Ωがαの、しかも皇帝の目と直接視線を交えるなど、本来なら即座に罰せられる無礼だ。
しかし、シアンは目を伏せることができなかった。
エドガーもまた、身の程知らずなΩの視線を咎めることなく、ただ静かに受け止めている。
沈黙が長引き、広間の空気が限界まで張り詰める。
香炉から立ち昇る煙が二人の間を隔てるように揺らいだが、交差する視線の熱は少しも下がらなかった。
やがて、エドガーが微かに唇の端を上げた。
笑みと呼ぶにはあまりにも微かで、冷たい動きだった。
「よいだろう。その怯えを知らぬ目を、少しの間、手元に置いておくのも悪くない」
その宣告が何を意味するのか。
シアンは言葉の裏を探ろうと脳を回転させるが、エドガーはすでに興味を失ったかのように視線を外していた。
「下がれ」
有無を言わせぬ命令に、シアンは再び深く頭を下げる。
冷たい床に手をつき直したとき、ようやく自分が息を止めていたことに気がついた。
肺に空気を送り込むと、微かなむせりがこみ上げてくる。
立ち上がり、静かに背を向けて広間を後にする。
背中に突き刺さるような灰色の視線を最後まで感じながら、シアンは冷や汗で湿った手を固く握りしめた。
復讐の第一歩は踏み出した。
だが、皇帝の計り知れない器の底に触れたような底知れぬ恐怖が、シアンの心に小さな波紋を広げていた。




